タイトルがすべてひらがなで、一瞬、上から読んでも下から読んでも同じ「回文」ではないか、と錯覚するような珍しい名前だ。2015年に長塚圭史の作・演出で上演されたものの再演で、登場人物は長塚を含め4人。「たなか」に首藤康之、「かなた」に近藤良平、「けいこ」に松たか子、「こいけ」に長塚圭史という配役だ。

 兵士の「たなか」は、出征を待ちながら暮らしているが、ふとした時に鏡の中にいる「かなた」に気付き、会話を始める。「たなか」は鏡の向こうにいる「けいこ」に一目惚れをするが、実像である「こいけ」は、「けいこ」とは比べ物にならない。一枚の鏡を挟んだ実像と虚像とも言える4人のカップルはどうなってゆくのか。

 鏡を隔てた世界の登場人物の名前が逆であるように、芝居の中での台詞も、ある時は向こうの人物は逆さに言う。また、「鏡」という前提のためにそっくりの動きを見せるが、それが時に間をはずし、組み替える足を間違えたりと、観客を混乱させたり面白がらせる仕掛けが凝らされている。一見、遊び心に満ちた芝居である一方、「鏡に映る虚像は何なのか」という、考え始めれば答えなど出すことができない深遠な問題に落ち込むきっかけをも持ち合わせている。それでいながら、難解な理屈を並べるわけではなく、子供でも充分に理解し、楽しむことができる。それぞれの視点で、何をどう眺め、考えるかができる芝居だ。一言で言えば、「ストライク・ゾーンが広い」ということになろうか。

 首藤康之の「たなか」は、バレエで鍛えたしなやかな動きが美しく、それに対する「かなた」の近藤良平のギリギリで息が合っている姿が面白い。松たか子の楚々たるイメージを持たせた「けいこ」に対し、乱暴な言葉や動きが絶妙におかしい長塚圭史の「こいけ」のコンビも秀逸だ。松たか子の台詞に、力がある。「ことば」ないしは「台詞」の重み、である。4人は、時代設定も場所も詳らかではない世界の中で、時に実像と虚像が入れ替わり、三面鏡を折り曲げた時に見える無限に続く世界のように閉じられた世界の中で生きているようにも見える。その一方で、宅配のピザ屋のお兄ちゃんが登場したりと、ふと現代の現実が紛れ込んで来る。既視感とまでは言わないが、この得体の知れない感覚が、作品が持っている「柔軟な」面白さだろう。休憩を挟まずに約1時間半にまとめてあるところも、異次元の世界を味わうにはちょうどよい感覚だ。

 新国立劇場の試みとして、こうしたある意味実験的な側面を持つ芝居を上演する方針は大いに歓迎するところだ。古今東西の名作を新しい感覚で上演することも大切な一方、新しい芝居をどんどん生み出すことが今の演劇界には必要だ。その役割を果たすべき存在として、来年のラインアップにも注目をしたい。