昨年、昭和の劇作家の旗手の一人であった清水邦夫が亡くなった。いろいろな意味で刺激的、問題提起が含まれた作品を遺した作家であり、「追悼」の意を込めてだろうか、最近、清水作品の上演を見掛ける機会が増えたようで、これはよいことだ。今回は、「劇団3〇〇」が新宿のシアタートップスでの上演で、主宰の渡辺えりが演出に当たっている。

 この『ぼくらが非情の大河をくだる時』は1972年の初演であり、私は初演を観てはいない。しかし、懐かしく嬉しかった。それは、久方ぶりに清水邦夫が揺れ動く時代の中で「尖っていた」時期の作品に触れることができたからだ。尖っていたのは清水だけではなく、「時代」であり、その痕跡を清水は戯曲に託して残した。1936年生まれの清水は22歳の折、大学在学中に劇作家としてデビューを果たし、10年程の歳月を経た1969年、演出家の蜷川幸雄とタッグを組み『真情あふるる軽薄さ』で話題を呼んだ。翌年の70年には大阪で「万国博覧会」が開かれ、開催期間中に国民の半数以上の6,000万人が訪れ、「先進国」の仲間に入ったような感覚の時代である。同時に、作家の三島由紀夫が市谷の自衛隊で割腹実を遂げ、飛行機の「よど号」がハイジャックされた。また、東大、早稲田、慶應などの大学をはじめとする多くの大学での学生運動、初演の1972年には「あさま山荘事件」、「沖縄の本土返還」など、世の中は「政治的事件」と共に目まぐるしい動きを見せていた時代だ。

 エネルギーが溢れていた、混沌とも動乱とも言える時代の様相を、信濃町に近い通称「権田原」の公衆便所に夜ごと集う男たち、そこに現われる気の狂った詩人と、兄と父。詩人は、公衆便所に下には死体が埋まっていると言うが、精神を病んだ詩人を追い掛けて現われた兄と父は棺桶を担いでいる…。これだけを書いても何の芝居だかわからないだろう。細かく筋を追ったところで、結果は同様だ。では、清水邦夫という劇作家は、この90分の芝居の中で「何を」描きたかったのだろうか。作品の大きな特徴に「メタファー」、つまり「隠喩」「暗喩」などと呼ばれる物が多数散りばめられている。それらを駆使しながら舞台で見せようとしたのは、当時の時代が持っていた爆発せんばかりのエネルギーと、若者を中心とした人々の混沌とした「時間」ではなかろうか。舞台の上では革命や同性愛などが描かれ、現在の感覚からは距離感のあるものかもしれない。一方で、普遍的とも言える「青春群像劇」と「三人の家族の物語」と観ることもできる。

 シアタートップスの広くはない舞台に20人以上の俳優が入り乱れ、親子三人を演じる俳優以外はみないくつもの役を演じている。「述べ」で数えれば登場人物は80人ではきかないだろう。役の名前も台詞もない役も多いが、それらの人々が放つエネルギーの爆発を、どう見せるかが今回の舞台の焦点の一つだ。

 清水はこの作品で表現したメタファー。例えば、「全学連」などの学生運動、そこから波及して発生した多くの事件、社会党の浅沼稲次郎刺殺、昭和39年の東京オリンピックのマラソンで入賞を果たしながら、そのプレッシャーで自死を遂げた円谷幸吉。こうした事件や事象が、山のように盛り込まれている。60代より若い現代の観客には、このメタファーが意味するものを見切ることは不可能だろう。批評を書いている私自身、すべてを見切れたかどうかの自信はない。

 渡辺は、これらのメタファーを丁寧に描き、バンドネオンの生演奏を効果的に使って、得意とする群像の描き方やスピード感で見せ方を工夫した演出方法を取っており、その丁寧な演出ぶりに、作者への敬意や憧憬が感じられる。惜しむらくは、メタファーを観客に理解させようとする意図と、楽しく賑やかに見せようとする意図の二つを尊重したため、そこに多少の混乱が起きたように見えたことだ。乱暴な方法かもしれないが、メタファーの意味を解くことを切り捨てて、「渡辺流」の見せ方に徹しても良かったのではないだろうか。それでも充分の作品への想いが伝わる丁寧な演出だった。

 

 昨今、丁寧なあまりに説明が過剰になる舞台が多く、観客に「謎」や「宿題」を与える芝居が少ない。「面白かったけれど、細かなことはよくわからなかった…」と劇場を後にし、家路につく中で舞台を思い返し、そこで何かに気付くこともまた、観劇の楽しみである。30年前、もっと言えば1970年代には、そうした作品がゴロゴロ転がっていた。昨今の舞台に多い、すべてが観客にわからない芝居は不親切であるとの考え方を否定はしないが積極的に肯定したいとは思わない。わからない点が多々あり、「あのシーンは何だったのか」「この芝居は何を言おうとしたのか」などを考え、理解に悩むところにも観劇の楽しみがあることまでは否定したくない。

 その点で言えば、久しぶりに「歯応え」のある作品に触れられたのは嬉しいと同時に、「作品ありき」で動いていた演劇界が、いつの間にか「キャストありき」に変質してしまったことの違和感をも覚えた。失礼な言い方になるが、この作品にはテレビや映像で名の売れた俳優は出ていない。しかし、「作品の力」があり、50年前の戯曲でも、現代に充分通用する。今回の場合、幕開きと幕切れに「現代」の新宿の雑踏を見せることで、50年の時間をつなぐ「接点」を作ったのは渡辺演出の効果だ。こうした工夫があれば、過去の名作を蘇らせ、新しい命や現代の感覚を吹き込むことも可能だ、ということを提示した点は評価に値する。清水邦夫作品に限った話ではなく、過去の日本の優れた戯曲にもう一度目を向け、新しい感覚で上演するという点で、意義のある舞台になった。こうした地道な作業に、「芝居にかける手間」があり、そこに「愛情」が感じられる。

懐かしくも新しい芝居を観た感覚が嬉しい。