夜の部は、昼の部の『新薄雪物語』の通しの続きで『広間』、『合腹』と続き、あまり上演の機会がない『正宗内』までを見せ、完結(原作はまだこの後の場面がある)。最後に、軽い踊り『夕顔棚』で8時10分過ぎの終演だ。時間の関係で昼の部の『花見』、『詮議』から一気に通して上演できないことは百も承知だが、いかにも観客に不親切な上演形態で、私も何度かこの芝居を観ているが、こうした形には初めてぶつかった。夜の部だけを観ても、何が何だか判らない部分も多いだろう。入り口で登場人物の相関図を観客全員に配布するほどであれば、野暮を承知で夜の部の最初に10分か15分、役者が「今までのあらすじ」を『伊達の十役』のようにパネルなどを活用して見せた方がまだしも親切というものだ。

互いの娘と息子が愛し合い、この二人に天下を狙っているとの疑いをかけられ、その嫌疑を晴らすために親が自らの命を捨てるのが『広間』と『合腹』だ。仁左衛門の園部兵衛、魁春の奥方・梅の方、幸四郎の幸崎伊賀守の三人が舞台に並ぶと、さすがに豪華で圧倒される。登場した瞬間に役の心理、歌舞伎では「肚」(はら)という表現をよく使うが、これが出来上がっているからだ。しかし、舞台の上の三人は、お互いがどういう心情でいるかを知らない。それが徐々に明かされ、我が子の命を救うために自らが腹を切る行為が「笑い」に繋がる、という芝居は、高等数学に等しい。「笑い」には自らの親ばかを嗤う「自嘲」があり、言葉を交わさずとも気持ちが通じていた、という信頼に対する「安堵」の笑いがあり、我が子の行く末を祝い、案じる「哀しみのわらい」までもが含まれているからだ。

 仁左衛門の兵衛と幸四郎の伊賀守が、声のトーンを違えてお互いに笑いに達する幕切れまで、二人が舞台で持続させる、「腹の探り合い」に伴う緊張感は、一種の心理劇であると言える。これが、ベテランの芸がぶつかり合う瞬間だ。こうした大舞台を観る機会が最近減っているような気がするが、ここに歌舞伎という伝統芸能が持つ凄さがあるのだ。

 原作の人形浄瑠璃に付かず離れずで歌舞伎の味を感じさせる芸は決して簡単なものではなく、今、この演目に関して言えば、この世代が最後だろう。昼の部では梅枝、児太郎が演じていた薄雪姫が夜の部では米吉に替わる。若い役者たちに、ベテランの芸を見せることで、歌舞伎の芸が伝承される瞬間を観ていることになるのだ、とは昼の部の批評でも述べたことだ。

 珍しい『正宗内』で、昼の部では悪人だった刀鍛冶・正宗(歌六)の倅・団九郎が本心を明かし、一応大団円を迎えることになる。吉右衛門の団九郎は、どういうわけか昼夜共に科白が詰まる場面があり、いささか生彩を欠く。もったいないことだ。『広間』『合腹』では幸崎の奥方・松ヶ枝を演じた芝雀が、ここでは娘のおれんに変身、若々しさを見せる。来年襲名を控えた父・雀右衛門を彷彿とさせる。吉介と名を変えて刀の打ちようを修行に来ている橋之助の来国俊に品があり、科白も悪くない。若手メンバーの中では大健闘を見せた。きっちり修行を重ねて来た役者だけに、芝居に品があり、気持ちがよい。歌六は老け役の幅が広がり、こうした物の味わいがだんだんに深まって来た。

 最後の『夕顔棚』。夏祭りの宵、風呂上りに夕涼みに出て来た老夫婦のコミカルな踊りだ。左團次の爺さんと菊五郎の婆さん。左團次が飄々と枯れた味を見せるようになった。菊五郎は、笑いが下品になる一歩手前のきわどいところ。
 
最近は、若手を中心に、新しい試みや早替わり、宙乗りなどに重点を置いた作品が人気を博している。それが悪いと言うつもりはない。問題は、こうした古典の大作が、徐々に現代の観客の感性と離れを見せていることだ。「モンスター・ペアレンツ」という言葉が定着してしまった現在、何も言わずに黙って子供のために腹を切る、という感覚、そして相手も自分の行為に気付いてくれるだろうという信頼。そうした感覚に、今の観客がどこまで共感を持てるのか。さりとて、古典歌舞伎はいつでも誰でも簡単に共感できるように安直な発想で手を加えられるものではない。この問題は、そう容易く結論が出せるようなものではないだけに、難しい。今、歌舞伎は時代の中で「正念場」を迎えている、とも言える。