「夢一夜」 2017.12.07 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
加藤健一事務所の100回目の公演は『夢一夜』というフランス系アメリカ人の劇作家、カトリーヌ・フィユーの作品である。現在は、「性的マイノリティ」については「LGBT」という言葉も一般的になり、理解が進み始めているが、そうした人々と、アメリカの「アーミッシュ」と呼ばれるキリスト教の純粋さを維持しながら生活する保守派の人々が主人公になった、面白い芝居を取り上げた。「アーミッシュ」とは耳慣れない言葉で、キリスト教徒がアメリカへ移民した当時の生活様式を基本とし、近代以前の伝統的な技術しか使わずに生活を送る人びとだ。電気を使わず、電話も家庭内には置かずに、集団の中で緊急時のために共用で置き、移動も自動車ではなく馬車を主としている。服装も生活も極めて質素で、現代の利便と欲望からは遠ざかった場所での生活を旨としている。
バッファローのあるモーテル。猛吹雪の中、「ミス・バッファロー・コンテスト」のためにトランスベスタイト(異性装)の男たちと、アーミッシュの家族が泊まり合わせ、バスルームを共有することになったことから、互いの話が始まる。その中で、トランスベスタイトのジャッキー(加藤健一)とアーミッシュのエイモス(新井康弘)が兄弟だったことが分かる…。
念のために言い添えるが、ここに登場するトランスベスタイトは、自分の性ではない性(男性であれば女装)を装うことを好むが、同性愛者ではない。しかし、厳しい戒律と自律の中で暮らす敬虔な信仰者から見れば、その姿は神の掟に背くものに写るだろう。一方、「アーミッシュ」も現代社会では「マイノリティ」に属してしまう。この芝居は、指向が違うマイノリティに属する兄弟同士の物語であり、それを周りの人々、ひいては現代社会がどう受け入れるかの問題を提示した作品なのだ。
加藤健一と新井康弘の共演は多く、今回も息の合った芝居を見せている。新井が兄の役に回ってはいるが、落ち着いた物腰と役者の個性で不自然さはない。低音の台詞に威厳めいたものが感じられて好演である。加藤健一は、女装が似合うはずもなく(失礼!)、だからこその面白さと、男性の姿に戻ってからのギャップ、兄との対話の中で自らが抉り出すように語る過去が、ずしりとした重みを持ち、笑いと重みの演じ分けが鮮やかだ。モーテルの管理人でとんでもない事態の連続に振り回されるジョアンを演じる加藤忍の「明るいおばさん」が面白い。加藤のジャッキーの仲間・バービーの横堀悦夫。女装の役は初めて、とのことだが、なかなかの熱演だ。
多様化し、細分化する社会の中で、何によらず「少数」で生きることは簡単ではない。その一方で、「多数」の中で生きることにも多くの苦労が付きまとう。我々は、その中で「自分」をどう保つべきなのか。作者の台詞にはそうした問い掛けがあちこちに含まれている。多数に属するからと言って安心できる材料は何もなく、少数だからと恥じる理由もない。その中で、自分が何を信じ、何に立脚して生きるのか。挑戦的な作品を取り上げた意気に感じる一方、自分がやりたい芝居をやるために設立した事務所で、毎回作品選びから初める手作りの公演を地道に100回重ねて来た加藤健一と、それを支えて来たスタッフの芝居に対する熱意にはただ頭が下がる。