「根岸庵」とは、俳人・正岡子規が東京での住まいとしていた場所で、「律」とは子規の妹のことだ。36歳で亡くなった子規とその家族、俳人の仲間を描いた小幡欣治の作品を、劇団民藝が上演している。この芝居は1998年に初演されたもので、その折は子規を伊藤孝雄、母・八重を北林谷栄、律を奈良岡朋子が演じ、作者はそれぞれの役者に「当て書き」をした形だった。今回は配役を一新し、丹野郁弓が演出して明治に燃え尽きた俳人と周りの人々の息遣いを炙り出した。

 ここで、「小幡欣治(1926~2011)」という劇作家のことについて少し触れておきたい。1956年に『畸型児』という作品で岸田國士戯曲賞を受賞して以来、東宝の作品を中心に大劇場演劇の舞台を書き続けたベテラン作家である。東宝時代には、三木のり平の『あかさたな』、山田五十鈴の『横浜どんたく』、今も上演が繰り返されている有吉佐和子の小説『三婆』の脚色などの仕事を残している。これは、昭和の一時代、大劇場演劇華やかなりし頃の意味のある作品として評価のできる仕事だ。

やがて、新劇に軸足を移し、劇団民藝のために書いた作品が『熊楠の家』、『喜劇の殿さん』、『根岸庵律女』などの作品だ。いずれも南方熊楠、古川ロッパ、正岡子規などの実在の人物が登場するが、単に「偉い人のおはなし」ではない。これらの人々や周囲の人物が自由に、闊達に、時にはわがままに生きる人間臭いドラマで、大劇場に提供したものとは違った意味で優れた作品が多い。
私は、小幡欣治という劇作家の真骨頂は、この晩年に近い後半の時期にあるような気がしてならない。『根岸庵律女』も70歳を過ぎてからの作品だが、枯れた筆の運びなど感じられずに、グイグイと観客を引きずるほどの力を持っている。今までに溜めていた題材がマグマが噴き出すように溢れ出たかのような熱情と力強さがあるのだ。

今回、正岡子規を演じている齊藤尊史、今年で26年目、そろそろベテランの領域に差し掛かってきたが、実に力の籠った熱演だ。以前の『夏・南方のローマンス』では木下順二の作品への体当たりを見せたが、今回の子規は、身体中からその想いや気持ちが伝わる。甘え、諦観、我がまま、怒り、もどかしさ…。そういう感情が綯い交ぜになり、彼の芝居を観た後で、知識としては知っている子規の最期の句の一つ「痰一斗へちまの水もまにあはず」が、よりリアリティを持って感じられるのがその成果だろう。

母親を演じる大ベテランの奈良岡朋子。今さら改めて巧い、ということには意味がないかもしれないが、今回は、他の役者の芝居を拾う巧みさに年輪を感じる。劇団民藝の看板女優であり、主演で舞台に立つことがほとんどだが、こうして脇へ回った時に、脇役の仕事をさりげなく、しかも丁寧に見せられるのは、この劇団の創立メンバーの一人として、実に65年に及ぶ芸歴を重ねて来たことによるものだ。

子規の妹、中地美佐子。奔放とも言える兄の看病に若い時代を費やし、兄が亡き後は養子を迎えて正岡の家を継ごうとする。明治の生きた凛とした女性の姿の片鱗が感じられる。

この作品は観方によっては子規を中心とした若き俳人たちの青春群像とも取れる。そこに垣間見える人々の息遣いを、演出の丹野郁弓が、エネルギッシュに見せたのが今回の舞台だ。今、どのようなテーマにせよ、議論の光景をあまり見なくなった。人間関係が希薄だ、と言われて久しいが、だからこそこうした「濃い」人々を、小幡欣治は書きたかったのではあるまいか。