来月、改築のために一旦閉館する「パルコ劇場」の新作の公演としては最後の作品になる。今までに上演した作品ではなく、新しい劇場への架け橋の意味を込めて、あえて新作で劇場の幕を閉じる、とのこと。蓬莱竜太の作品を栗山民也が演出している。二人とも、パルコ劇場にはお馴染みの顔だ。
この作品の出演者は女優が4人だけだ。タイトルからも想像が付くように、母と娘たちの物語だ。斉藤由貴の母、田畑智子の長女・美咲、鈴木杏の次女・優、志田未来の三女・シオ。この三姉妹の母が長崎で突然亡くなり、三人の娘たちは故郷でもあり母が目を閉じた地でもある長崎から、その遺骨を抱いて旅に出る。そして、なぜかトルコ・イスタンブールの喧騒の中で母の姿を見かける。三人の娘はそれぞれに事情を抱え、長い旅の途中で母との記憶をたどり、それぞれが抱く母との距離感や関係性に想いを馳せる…。娘たちに「私には重石が三つ必要たい。じゃないとさっさと好きなとこへ飛んで行くけん」と言っていた母が命を閉じ、その魂が飛んだ先は、1978年に流行った庄野真代の『飛んでイスタンブール』の象徴でもある。
ひところ、「自分探し」という言葉が流行った。自分と他者との関係性を探ることや自問自答は悪いことではない。この芝居は、自分探しであると同時に、ある意味で喪った瞬間に始まった母探し、母との関係探しの芝居でもある。斉藤由貴の母は、酒と博打に明け暮れ、男なしでは生きられない性格だ。長崎でスナックを経営してはいるものの、その代わりにまともに子供と向き合って子育てをするタイプではない。三姉妹それぞれに母の言動に困らされ、反発もすれば喧嘩もする。しかし、その体内を流れているのは、紛れもなく「母の血」だ。それがどのように現われるのかの不安を抱きながら三人は生きている。
母が亡くなったことで数年ぶりにまとまった三人は、自分と母との記憶をたどるが、どれも決して愉快な話ではなく、自分の心の中に封印しておきたい「記憶」ばかりである。しかし、彼女たちは鮮烈に生きた母の周りを回る衛星であり、記憶をたどることでその事実を自覚するのだ。トルコという全く関係のない土地へのあてどのない旅は、突然死した母に対する娘たちの「弔い」の最後の儀式なのだ。
登場人物が女性ばかりとは言え、気性の激しい母を中心に飛び交う長崎弁の台詞には、切り裂くような鋭さがある。しかし、それが汚く聞こえもしなければ、不愉快にも感じられないのは、作者の台詞に対する想いだろう。次女を演じる鈴木杏の明るさが、時にシビアなドラマの救いになっている。斉藤由貴の母親は、終始気だるげで人生を放り投げてしまったような感覚を匂わせながら、時折見せる「女」の部分が妙に艶めいている。娘にすれば一番見たくない母の姿だが、三人ともそうした姿が鮮烈な記憶として残っており、それが娘としての証でもあるのだ。
長崎とイスタンブールという、一見まったくかけ離れた二つの土地で展開するドラマだが、違和感はない。それは、我々がいつ、どこであれ、雑踏の中で日々を送っている、ということと無縁ではないだろう。また、二つの都市は、歴史的に見れば他国との「架け橋」になる土地でもある。雑踏を彷徨う三人の前に姿を現わした母は、当然ながら無言だ。遺骨を抱いている母が、縁のないイスタンブールにいるわけはない。三人が見た母の姿は、それぞれの眼や心の中にある自分の未来の姿、だったのかも知れない。
パルコ劇場が再度オープンするのは3年後と聞いた。新しい劇場はどんな芝居で幕を開けるのだろうか。