三好十郎がゴッホの半生を描いた名作『炎の人』を始めて観たのは、手元の控えによると「1989年」とあり、30年以上前のことだ。この折は、ゴッホを当たり役にしていた瀧澤修主演の「劇団民藝」による舞台で、最初は海外の作家による芝居かと勘違いした。それほどに骨太に物語が編まれ、台詞が力強さを持っていた。加えて、海外の物語だったから、余計にその感覚を強く持ったのだろう。以来、他の俳優が演じたゴッホも観てきたが、作者と由縁が深く、多くの三好作品を上演している「文化座」では、昭和42年以来53年ぶりの上演となる。
多くの人がエピソードとして知るゴッホの奇行や、画家としての内面の葛藤をつぶさに演じるのは簡単なことではない。ゴッホが、画家になる以前の姿からをさまざまな角度で描き出した緻密で硬質な脚本には、膨大な台詞とそれ以外の「感情」が溢れるほどだ。名作でありながら、そう頻繁には上演されてこなかった理由は、この辺りにもあるのではないか。
さて、メンバーを一新して、約半世紀ぶりに挑む文化座の『炎の人』だ。ゴッホが画家になる以前、貧しく厳しい炭鉱で人々を信仰の力を借りて助けようとしている第一場から、ゴーガンと共に暮らしながら絵を描き、そして己の耳を切る第五場とエピローグの付いた大作だ。ゴッホには、10年前に劇団入りした藤原章寛が抜擢され、その期待に見事に応える力演を見せている。傲岸不遜なまでの自信と卑屈な劣等感、「絵」に囚われた狂おしい感情の間を、時計の振り子のように絶えず行き来する不安定さの表現が巧みだ。これにより「有名な画家の半生記」のドラマではなく、「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という一人の人間の精神的な内面の苦悩や葛藤、人間のありようが浮き彫りにされる。好演である。
ゴッホの絵のモデルとしても有名で、当時の若い画家たちの応援者でもあった絵画商のタンギィの青木和宣、おかみの佐々木愛が登場する第三場の「タンギィの店」。両ベテランの安定感と、それまで続いた膨大な台詞のやり取りが生み出した緊張を緩和する、いい場面になっている。この辺りも劇的構成の見事さがあり、長編ゆえに起きる場合がある「中だるみ」を防ぎ、明るく気分転換させる効果もある。二人の演技を観ていると、歌舞伎のような古典芸能とまでは言わないが、「劇団」という限られたメンバーの中で、演技術や作品への向き合い方などが連綿と伝えられてきた歴史を感じる。
鵜山仁の演出は、奇を衒うわけではなく真正面から作品に向き合い、戯曲と俳優の持ち味を引き出そうとする丁寧な演出だ。乘峯雅寛の舞台美術がシンプルな構造を巧みに利用して効果を挙げている。
「歯ごたえのあるせりふ劇」が、あまり好まれなくなって久しい。しかし、日本の戯曲にもこうした噛み応え充分の作品はたくさん眠っている。それを掘り起こし、現代の観客にどう見せるかは大きな問題であり、歴史を重ねている老舗の劇団が、こうした試みをしてくれるのは頼もしいことだ。その一方で、大変残念なことだが、昔ながらの「新劇団」の経営状況はどこも芳しいとは言えない。1,000人を超える劇場が連日満員になる性質の芝居ではなく、華やかなアクションや音楽に彩られているわけではない。しかし、こうして若い、有望な俳優が産まれているのも確かな事実だ。演劇の根本でもある「良い脚本」に真摯に向き合い、ひたむきな努力を重ねることで、また新しい生命を吹き込まれる作品も多く眠っているはずだ。そうしたことどもを考えると、今回の『炎の人』の上演には、多くの意味もあり、意義もある。 だからこそ、貴重な舞台なのだ、と言えよう。