今月の顔見世興行で、市川海老蔵が大仏次郎の『若き日の信長』を演じている。この作品は、昭和27年に、海老蔵の祖父に当たる九世市川海老蔵(後の十一世市川團十郎)のために書かれたものだ。無法、放埓で知られた青年時代の織田信長の行動や思想を温かく肯定的な視線で捉えたものだ。海老蔵の父・十二世團十郎もこの役を演じており、祖父以来の当たり役と考えてもよいが、それが戦後の作品、というのが面白い。
実際に先々代の團十郎を観ていない私が軽々に言うべきことではないが、良く言われるように、写真を見た限りではその面差しが、海老蔵は祖父にそっくりだ、とはよく言われている。父の先代團十郎も海老蔵当時から現・海老蔵と同様に科白に難があることを指摘されていたが、この作品のように義太夫や長唄などの入らない芝居だと、それも気にならない。意識してかせずかは知らないが、科白の語尾を無造作に放り投げるように言うのも、我々のイメージにある信長の無頼ぶりの一面を象徴しているように聞こえる。
昼の部の三本の芝居の中から、あえてこの一本を批評として取り出したのは、期待していたよりも良かったからだ。その原因は、先に述べた義太夫を使った歌舞伎ではないから、だろう。また、祖父に当てて書かれた芝居を、没後五十年に孫が演じている、という点もある。
信長に想いを寄せる孝太郎の弥生や、死を以てその振る舞いを諌める左団次の平手政秀の好助演が、海老蔵を支えていた要因は大きい。ただ、この芝居の海老蔵に関して言えば、タイトルにあるように『若き日の』であり、信長が天下を取る前の人間として未完成な時代を取り上げ、それを演じる海老蔵の芝居もまた「未完成」であるからこその魅力だ。
我々は魅力の多くを完成した品物や技芸に求める。しかし、数は少ないものの、そこへたどり着くまでの間、未完成の魅力を見せるものがある。完成に近い物を求める観客に対して、作り掛けの芸を見せてどうするのだ、という問題はある。しかし、歌舞伎は人間が演じる物であり、「熟成」がある代わりに「完成」はない。その「熟成」に至る前の、青い蜜柑のような香気が、今回の海老蔵の芝居にはあった、ということだ。
下手な芝居は未完成によるものだ。しかし、未完成な芝居が全部下手か、と言うとそうではないところに芝居の面白さがある。今回の舞台は、海老蔵の未完成ゆえの魅力が発揮された。その分、時代物などの歌舞伎には弱点があることも如実に判った。今の歌舞伎の花形の一人として、次代の歌舞伎を支える責任を期待されている立場では、このままゆかないことは明らかである。これからの海老蔵が、どんな道をたどるのか、ある意味では象徴的な舞台とも言える。