私が劇評を書くに当たって常に意識し、書いていることだが、舞台の幕が開いて以降は、その評価のほとんどは役者が引き受けなくてはならない。演劇ファンが「○○が出るから」、「あの作品なら」という動機で劇場へ足を運ぶケースは多いが、「△△の脚本だから」ないしは「××の演出だから」という動機で芝居を観る割合はそれに比べて少ないだろう。もちろん、名前だけで観客を集めることができる脚本家や演出家もいる。しかし、割合は圧倒的に俳優が多く、その演技を生かすも殺すも脚本・演出次第だ。その結果、「今月の○○さんは良かった」、あるいは「期待したほどじゃなかった」という感想に別れるケースが多い。
『ウィズ~オズの魔法使い』は、2012年に次いでの再演となる。それぞれの役に達者な役者を揃えているが、肝心の演出家・宮本亜門の視点がどこにあるのか定まらず、散漫な印象しか残らないのが致命的だ。幕が開くと、主人公のドロシーの一家が住んでいるアパートメントの一室が登場し、そこに竜巻のニュースが起こり、ドロシーは飛ばされてゆく。しかし、このアパートメントがどう見ても日本の郊外の公営住宅のような造りで、アメリカの感覚が希薄だ。いくら竜巻で飛ばされても、これから「ファンタジーの世界へどうぞ」というにはかなりの無理がある。
また、最近の映像技術の発達を利用して、精巧な映像が登場するが、これがいかにも中途半端の謗りを免れることはできない。LEDの発達などで、かなり美しくリアルな映像や、舞台では表現できない事も可能になったが、考えようによってはこの便利な映像は「諸刃の剣」であることを、私は数年前から危惧していた。更に長足の進歩を遂げれば、生身の役者などほとんどいらなくなってしまう可能性を孕んでいるからだ。それを創り手の側がキチンと認識して、「どこまでが大丈夫か」と試行錯誤を繰り返しているうちは良いが、「こういう便利なものができて安心だ」となった時が一番怖い。
個性的な役者を揃えていながら、主演のドロシーを「NMB48」の梅田彩佳、「AKB48」の田野優花、西の悪い魔女を岡本知高、阿知波悟美と、あえてダブル・キャストにする意味も今一つ不明な上に、役者による演技のバラつきが大きい。その足並みを揃え、一定の方向を向かせてまとめるのが演出家の仕事ではなかろうか。それがなされていないために、舞台と観客席の温度差が非常に激しく、どうしても『オズの魔法使い』の世界に入って行けずに、交通整理が付かないゴチャゴチャした舞台、という印象になってしまう。更に言えば、芝居の中で、スポットライトの強い光が観客席に向けられる場面が何度かある。こうした演出はさして珍しいことではないが、これが頻繁に行われ、加えて大きな音にさらされると、意外に観客が感じるストレスは大きいものだ。
再演されるからには、初演での高い評価があり、演出家としても自信を持っているのだろうが、作品を貫く芯棒がツギハギのようで、極端な言い方をすれば、普通に『オズの魔法使い』を演じた方が余計なことを考えることなく、充分に楽しめる。それを、ここまでいじることにどれほどの意味と効果があるのかが測り兼ねるのだ。
演技陣で言えば、非常に残念だったのは陣内孝則の「ウィズ」で、彼の芝居が始まった途端に、夢の国であるはずのグリーンランドがいきなり日本の安手な芝居に変わってしまう。彼が演じているのは『菊次郎とさき』ではないはずだ。それを、演出家はどういう眼で見ていたのだろうか。私は、彼が1984年に『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』で見せたアブナイ歯医者の鮮烈なイメージを忘れることができない。そういう芝居ができる役者の抽斗を開けるのも演出家の仕事であるはずだ。
いろいろな形でコンプレックスを抱えて生きている人間も獣もブリキ男も、自信を持って生きよう、という大人向けのメッセージも、子供向けのファンタジックも共に生かせなかった舞台、残念だ。