昨年2月、東京・日生劇場で二代目松本白鸚(はくおう)の『ラ・マンチャの男』が「ファイナル公演」の幕を開けた。しかし、まだ「新型コロナウイルス」の勢いが今ほどには収まってはおらず、関係者も崩し、休演の日が相次いだ。結果として、25回予定されていた公演の幕は7回しか開かずに終わることになった。この公演に向けて懸命に稽古を続けてきたキャスト・スタッフ・関係者はもちろんのこと、1,300回、半世紀を超える白鸚の「遍歴の旅」の最後を見届けようと楽しみにしていた観客の嘆きも大きかった。通常の公演であればともかくも、今までの集大成との意味を込めた「ファイナル」であるだけに、何とかならないものか、との声が公演主催の東宝にも数多く寄せられたようだ。

 私は幸いにも、7回のうち2回の舞台を観ることができた。「強運」だったと言うほかはなく、実に見事な「ファイナル」の名に相応しい舞台だった。しかし、チケットを持っていながら観劇が叶わなかった人々や、きちんとしたファイナル公演を望む人々のために、本当の意味でのファイナル公演が行われることになった。今回は、東京ではなく神奈川県・横須賀市の横須賀芸術劇場で、1,800人収容の大きなホールだ。今までに演じてきた劇場とは勝手が違う上に、昨年の公演から1年以上の時間が経ち、その間に白鸚は80歳になった。正直に言って、この年代での1年は、決して短くはなく、20代の1年よりも遙かに意味は大きい。2時間以上休憩なく進む作品に出ずっぱりで、気力、体力を含めたいろいろな点で不安がなかったと言えば嘘になる。しかし、今回は、途中で25分の休憩を挟むことでそうした問題を解決した。通常、間に休憩を入れると観客の緊張の糸が切れ、気分が持続しないことがあるが、今回は違った。それだけ、観客の期待やエネルギーも大きかった、ということだろう。

 幕が開き、54年にわたり、市川染五郎時代から松本幸四郎を経て松本白鸚になったドン・キホーテが舞台奥から登場した。劇場の天井が今までよりも高いことや、体力面を考慮してか、昨年までの20段を超える階段ではなく、坂道のようなスロープになっている。足元をしっかりと踏みしめながら、白鸚は現われた。確かに、コロナ禍の影響を受けて、舞台が少なくなった影響も大きく、衰えが見えないとは言わない。しかし、舞台とは不思議なもので、年を重ねて身体の動きが若い頃のようには行かなくなる代わりに、心理的な表現がグンと深まるケースがある。今回の『ラ・マンチャの男』はそうした例と言える。仮に、平坦な道を歩いて出て来たとしても、さして問題にはならなかったはずだ。肉体の動きを削げば削ぐほどに、心理的な深まりが見えるからだ。ここに、役者の「年功」がある。

 宗教裁判に掛けられることになった作家のセルバンテスが描いた芝居の台本の登場人物で地方の郷士、アロンソ・キハーナは、自らが数百年前の伝説の遍歴の騎士、ドン・キホーテであると錯覚し、従僕のサンチョを連れ、麗わしの姫を探す旅に出る。その様子を、牢の中の人物に演じさせる二重構造の入れ子のような作品だ。しかし、この複雑な構造の中で、白鸚のドン・キホーテは、人生の核心を突く台詞と共に生き生きとした姿を見せる。80歳という「老い」を逆手に取り、役に同化させていたのは昨年の舞台も同様だったが、今回はそれが更に深まった。動きが少なくなった分、心理的な動きによる台詞の重みが増した。

 一人の俳優が長い期間を掛けて演じた作品は他にも例がある。そうした場合、作品を観続けてきた観客も、同様の歳月を重ねているのだ。私の例を出すのは恐縮だが、この舞台を最初に観てから40年以上が経っている。若い折には、「難しいが凄いミュージカルだ」と思っていたものが、やがて、ドン・キホーテの「事実とは真実の敵なり」、あるいは、「最も憎むべき狂気とは、あるがままの生活に折り合いを付けてしまい、あるべき姿のために闘わぬことだ」などの台詞が、自分の怠惰な日常に投げ掛けられているような想いがして、胸を刺すようになった。

 これは、私個人の問題ではない。演じている白鸚を筆頭に、1977年以来、牢名主を46年にわたり演じている上條恒彦や他の出演者も観客も、同様に回を重ねるごとに新たな発見を繰り返し、舞台の精神性が深まったのだろう。

 白鸚は「奇跡」という言葉を使うことがある。昨年、先に述べたような事情で消化不良に終わった舞台が、ほとんどキャストを変更することなく、本当のファイナル公演の幕が開いたことはまさに「奇跡」で、よほど多くの環境が整わなくてはできることではない。前回に続いて11回目の出演となる松たか子のアルドンザも同様で、21年前に初めて演じた時とは全然違った哀しみや諦めを見せる。

 舞台にはアンサンブルが重要なことは言うまでもないが、今回の『ラ・マンチャの男』は、ファイナルという言葉だけにとらわれることなく、いつにも増して白鸚のドン・キホーテを巡る舞台の結束が固い。これは、舞台に立つ人や関係者がこの公演の歴史的な重みを充分に理解し、その職分を果たそうとしているからだろう。全員の名を挙げることはしないが、初参加の伊原剛志を含め、関わる人々のモチベーションの高さを感じる。その中で、白鸚の「ドン・キホーテ」は「融通無碍」とも言える境地にあった。多少台詞がよどもうが、動きにシャープさを欠く場面があろうが、役者と役が一体化した中では、ドン・キホーテの言葉であり、動きとなり、観客を惹き付けて離さない。80歳で歌舞伎の主役を演じる場合は多々あるが、大作ミュージカルの主演となると、「年代記物」とも言えるだろう。

 「ファイナル公演」は24日に千秋楽を迎える。しかし、それは『ラ・マンチャの男』という一つの作品の話で、松本白鸚という役者の遍歴の旅はまだまだ続くのだろう。昭和、平成、令和と三つの時代にわたって演じ続けてきた松本白鸚の遍歴の騎士は、気高い微笑みを湛えて、凛然と舞台に佇んでいる。