国立劇場開場五十周年記念公演として、先月から始まった『仮名手本忠臣蔵』の完全上演も二か月目に入った。先月は『大序』から『四段目』までの上演で、今月は『落人』から『五段目』『六段目』『七段目』の上演となる。判官切腹で幕を閉じた先月だが、今月は舞踊、世話物、時代物と同じ芝居でも色合いが異なった幕の上演となった。
最初は中村錦之助の早野勘平、尾上菊之助のおかるのコンビによる舞踊『落人』。錦之助の勘平は、すっきりした二枚目ぶりと折り目正しい踊りが嬉しい。菊之助のおかるは、過不足のない踊りだが、もう一点「何か」が加わればもっと面白くなるだろう。すべき事はしているが、それ以上の魅力がないまま、『六段目』も同様に演じている。今回の三か月という長丁場の作品で、父を相手にこの役を演じられるチャンスを活かせないのはもったいないことだ。
続いて、『五段目』。ここで勘平は尾上菊五郎に変わる。さすがに何度も演じているだけあって、この後の『六段目』の悲劇までを若々しく演じる。女房・おかるが子息の菊之助とのつり合いを考えたのだろうか、ふと青年らしさが匂う。斧定九郎は松緑。亡き父・初代尾上辰之助が昭和61年、亡くなる数か月前に同じ国立劇場で演じた舞台が目に残っている。時代が変わり、メンバーも違う中で比べるのは酷な話だが、虚無感の漂う悪人を目指している方向性は評価したい。母・おかやは中村東蔵。相変わらず芝居がバタついて騒々しいのが玉に瑕だ。次々に一家で起きる悲劇に呆然としつつ、深い哀しみを見せる、という方法もあるだろう。お才は中村魁春で、亡父・歌右衛門に科白の言い回しが酷似してきた。「二人侍」の原郷右衛門に中村歌六が初役で付き合っている。科白で聞かせ、貫目で見せるいい出来で、こうした役が重要なのだ。
芝居を批評する立場の人間が、演目の個人的な好き嫌いを言ってはいけないが、私はどうしてもこの『六段目』が好きではなかった。今までに何度となく観ていながら好きになれなかったのは、この場面で解き明かされる「真実」を、我々観客はその直前の『五段目』ですべて観ており、長時間にわたる謎解きの芝居が退屈に感じられたからだ。しかし、今回の菊五郎の勘平を改めて細かく見てみると、主君の大事に自分は不義の最中、という負い目を背負い、女房の家に厄介になって慣れぬ猟師の仕事で日々を送り、挙句に女房に身売りをさせる、という立場の勘平の心理が浮き彫りにされる。言いたくても言えないことを呑み込みながら、徐々に心理的に追い詰められ、早まったにせよ自ら刀を突き立てなくてはならないところまで追い込まれる男の心理。こうした心理的な掘り下げを見せるには、やはり相当の年数が必要なのだ。
最後は『七段目』。由良之助は先月の松本幸四郎から中村吉右衛門に変わった。京の祇園・一力茶屋での華やかな場面だ。よく言われるように、同じ由良之助という役でありながら、『四段目』と『七段目』とでは別人のように演じ方が違う。『四段目』は、判官切腹というお家の大事にすんでのところで駆け付けた家老としての立場で、眼の前で無念の死を遂げた主君の想いをどう呑み込むか、という男だ。『七段目』は、心に秘めた仇討ちの決意を人に知られることなく、味方までをも騙そうとする存在だ。それゆえに、わざと祇園で飲みたくない酒を飲み、遊興に耽るのだが、そこには「お大尽遊び」を自然にできる男の色気がなくてはならない。吉右衛門の由良之助は、前半でたっぷりと愛嬌のある由良之助を見せ、後半は本来の由良之助の姿で、敵方へ寝返った家老・九太夫を打ち据える。人生の酸いも甘いもかみ分けた、分別のある男だ。
おかるは、今までの菊之助から、この場は中村雀右衛門に変わる。吉右衛門の由良之助には、年齢からも柄からも雀右衛門の方が釣り合いが取れる。今でも「可憐な」という言葉がぴったりな雀右衛門は、時折父の姿を感じさせながらも、うぶさの抜けないおかるで、純真無垢な気持ちが垣間見える。
細かいことだが、茶屋遊びの最中に、座興で仲居や幇間との「見立て」を見せる場面があるが、これが面白くない。こういう場面で気の利いたところを見せるのが脇役の腕である。同様に、駕籠かきの芝居がやたらに江戸前なのも不自然だ。京の祇園である。重箱の隅をつつくようだが、演劇は総合芸術であり、どんな役にも意味があり、疎かにはできない。まして、長い時間をかけて醸成してきた古典芸能は、こうした石垣の細かな石に見える部分も非常に大事なのだ、ということをあえて言っておきたい。
おかるの兄で足軽の寺岡平右衛門は中村又五郎。初役で張り切っているのは良いし、科白もはっきりと通るが、芝居をし過ぎで、大車輪を通り越していささかくどい。大熱演は結構だが、他の役者の邪魔になるほどの勢いで芝居をすることの塩梅、というものを知っている役者のはずなのに惜しい。平右衛門の置かれた立場、つまり父を殺され、可愛い妹が身売りをしてまで金を作った亭主・勘平は非業の死を遂げた。その悲劇を妹に告げる役目を果たしに「一力茶屋」へ来て、由良之助の本心を知り、そのために妹を手に掛けようとする。二重三重の悲劇に身を取り巻かれた男の、錯綜した深い哀しみと複雑な感情が見えてこないのだ。
今回、『七段目』の上演時間は1時間50分かかっている。多くの場合、1時間40分前後で、今回は数分長い。この時間は、同じ言葉や芝居の繰り返しなどがいつもよりも多いことも原因の一つではないだろうか。『七段目』は歴史的に役者の「入れ事」と呼ばれる追加で長くなってきた傾向がある作品だ。何もかもスピードを求めるつもりはないが、無用な言葉や無駄な芝居はカットしてしかるべきだろう。
さて、吉右衛門の由良之助である。味方をも欺く前半の遊蕩の色気と、本心を現わす後半との違いをどう見せるかがこの役に力量が問われるところだ。時代物には定評のある吉右衛門だけに、前半は愛嬌たっぷりに、本性が見せぬままに遊蕩に徹する。分別を弁え、粋に遊んでいる男の色気が見え隠れする。そうしながらも、家老という立場にある男の重みを観客に感じさせるのが肝心なところだ。後半、着付けを紫から緑に替え、自分の本心をおかるや平右衛門に見せ、床下に忍んでいた敵方へ寝返ったかつての家老・九太夫を引きずり出し、打ち据えながら想いを語る場面までは一気呵成に芝居を運ぶ。そのリズムの良さと、由良之助の心情が巧く現われており、見事な由良之助だ。
ベテランから花形までが揃って時代物の名作を上演するこのプロジェクト、10月、11月ともにたっぷりとした味わいを見せた。今の歌舞伎のメンバーでこれだけの舞台を見せる機会はそうはないだろう。この中で、若手の役者たちが先輩の仕事を吸収し、次の舞台にどう活かすかという点では修行の場でもある。この一か月で多くの勉強をした役者も多いはずだ。この繰り返しで役者は成長をする。観客はそれを厳しくも温かい目で見ているはずだ。
国立劇場開場五十周年記念公演として、先月から始まった『仮名手本忠臣蔵』の完全上演も二か月目に入った。先月は『大序』から『四段目』までの上演で、今月は『落人』から『五段目『六段目』『七段目』の上演となる。判官切腹で幕を閉じた先月だが、今月は舞踊、世話物、時代物と同じ芝居でも色合いが異なった幕の上演となった。
最初は中村錦之助の早野勘平、尾上菊之助のおかるのコンビによる舞踊『落人』。錦之助の勘平は、すっきりした二枚目ぶりと折り目正しい踊りが嬉しい。菊之助のおかるは、過不足のない踊りだが、もう一点「何か」が加わればもっと面白くなるだろう。すべき事はしているが、それ以上の魅力がないまま、『六段目』も同様に演じている。今回の三か月という長丁場の作品で、父を相手にこの役を演じられるチャンスを活かせないのはもったいないことだ。
続いて、『五段目』。ここで勘平は尾上菊五郎に変わる。さすがに何度も演じているだけあって、この後の『六段目』の悲劇までを若々しく演じる。女房・おかるが子息の菊之助とのつり合いを考えたのだろうか、ふと青年らしさが匂う。斧定九郎は松緑。亡き父・初代尾上辰之助が昭和61年、亡くなる数か月前に同じ国立劇場で演じた舞台が目に残っている。時代が変わり、メンバーも違う中で比べるのは酷な話だが、虚無感の漂う悪人を目指している方向性は評価したい。母・おかやは中村東蔵。相変わらず芝居がバタついて騒々しいのが玉に瑕だ。次々に一家で起きる悲劇に呆然としつつ、深い哀しみを見せる、という方法もあるだろう。お才は中村魁春で、亡父・歌右衛門に科白の言い回しが酷似してきた。「二人侍」の原郷右衛門に中村歌六が初役で付き合っている。科白で聞かせ、貫目で見せるいい出来で、こうした役が重要なのだ。
芝居を批評する立場の人間が、演目の個人的な好き嫌いを言ってはいけないが、私はどうしてもこの『六段目』が好きではなかった。今までに何度となく観ていながら好きになれなかったのは、この場面で解き明かされる「真実」を、我々観客はその直前の『五段目』ですべて観ており、長時間にわたる謎解きの芝居が退屈に感じられたからだ。しかし、今回の菊五郎の勘平を改めて細かく見てみると、主君の大事に自分は不義の最中、という負い目を背負い、女房の家に厄介になって慣れぬ猟師の仕事で日々を送り、挙句に女房に身売りをさせる、という立場の勘平の心理が浮き彫りにされる。言いたくても言えないことを呑み込みながら、徐々に心理的に追い詰められ、早まったにせよ自ら刀を突き立てなくてはならないところまで追い込まれる男の心理。こうした心理的な掘り下げを見せるには、やはり相当の年数が必要なのだ。
最後は『七段目』。由良之助は先月の松本幸四郎から中村吉右衛門に変わった。京の祇園・一力茶屋での華やかな場面だ。よく言われるように、同じ由良之助という役でありながら、『四段目』と『七段目』とでは別人のように演じ方が違う。『四段目』は、判官切腹というお家の大事にすんでのところで駆け付けた家老としての立場で、眼の前で無念の死を遂げた主君の想いをどう呑み込むか、という男だ。『七段目』は、心に秘めた仇討ちの決意を人に知られることなく、味方までをも騙そうとする存在だ。それゆえに、わざと祇園で飲みたくない酒を飲み、遊興に耽るのだが、そこには「お大尽遊び」を自然にできる男の色気がなくてはならない。吉右衛門の由良之助は、前半でたっぷりと愛嬌のある由良之助を見せ、後半は本来の由良之助の姿で、敵方へ寝返った家老・九太夫を打ち据える。人生の酸いも甘いもかみ分けた、分別のある男だ。
おかるは、今までの菊之助から、この場は中村雀右衛門に変わる。吉右衛門の由良之助には、年齢からも柄からも雀右衛門の方が釣り合いが取れる。今でも「可憐な」という言葉がぴったりな雀右衛門は、時折父の姿を感じさせながらも、うぶさの抜けないおかるで、純真無垢な気持ちが垣間見える。
細かいことだが、茶屋遊びの最中に、座興で仲居や幇間との「見立て」を見せる場面があるが、これが面白くない。こういう場面で気の利いたところを見せるのが脇役の腕である。同様に、駕籠かきの芝居がやたらに江戸前なのも不自然だ。京の祇園である。重箱の隅をつつくようだが、演劇は総合芸術であり、どんな役にも意味があり、疎かにはできない。まして、長い時間をかけて醸成してきた古典芸能は、こうした石垣の細かな石に見える部分も非常に大事なのだ、ということをあえて言っておきたい。
おかるの兄で足軽の寺岡平右衛門は中村又五郎。初役で張り切っているのは良いし、科白もはっきりと通るが、芝居をし過ぎで、大車輪を通り越していささかくどい。大熱演は結構だが、他の役者の邪魔になるほどの勢いで芝居をすることの塩梅、というものを知っている役者のはずなのに惜しい。平右衛門の置かれた立場、つまり父を殺され、可愛い妹が身売りをしてまで金を作った亭主・勘平は非業の死を遂げた。その悲劇を妹に告げる役目を果たしに「一力茶屋」へ来て、由良之助の本心を知り、そのために妹を手に掛けようとする。二重三重の悲劇に身を取り巻かれた男の、錯綜した深い哀しみと複雑な感情が見えてこないのだ。
今回、『七段目』の上演時間は1時間50分かかっている。多くの場合、1時間40分前後で、今回は数分長い。この時間は、同じ言葉や芝居の繰り返しなどがいつもよりも多いことも原因の一つではないだろうか。『七段目』は歴史的に役者の「入れ事」と呼ばれる追加で長くなってきた傾向がある作品だ。何もかもスピードを求めるつもりはないが、無用な言葉や無駄な芝居はカットしてしかるべきだろう。
さて、吉右衛門の由良之助である。味方をも欺く前半の遊蕩の色気と、本心を現わす後半との違いをどう見せるかがこの役に力量が問われるところだ。時代物には定評のある吉右衛門だけに、前半は愛嬌たっぷりに、本性が見せぬままに遊蕩に徹する。分別を弁え、粋に遊んでいる男の色気が見え隠れする。そうしながらも、家老という立場にある男の重みを観客に感じさせるのが肝心なところだ。後半、着付けを紫から緑に替え、自分の本心をおかるや平右衛門に見せ、床下に忍んでいた敵方へ寝返ったかつての家老・九太夫を引きずり出し、打ち据えながら想いを語る場面までは一気呵成に芝居を運ぶ。そのリズムの良さと、由良之助の心情が巧く現われており、見事な由良之助だ。
ベテランから花形までが揃って時代物の名作を上演するこのプロジェクト、10月、11月ともにたっぷりとした味わいを見せた。今の歌舞伎のメンバーでこれだけの舞台を見せる機会はそうはないだろう。この中で、若手の役者たちが先輩の仕事を吸収し、次の舞台にどう活かすかという点では修行の場でもある。この一か月で多くの勉強をした役者も多いはずだ。この繰り返しで役者は成長をする。観客はそれを厳しくも温かい目で見ているはずだ。