国立劇場開場50周年公演の最後を飾る『仮名手本忠臣蔵』の完全上演もいよいよ第三部、『八段目』の道行から『十一段目』の本懐・引揚げまでの上演で、今月で完結をみる。休憩時間を含んで三か月間、『大序』から『十一段目』まで実に15時間30分という大作だ。江戸の昔の芝居のペースを味わいながらも、、現代人にはいささか長いと感じる場面もあったが、「国立劇場」でなければできない大型プロジェクトであることは間違いない。
今月は大星由良之助に中村梅玉、『九段目』に登場する大星の妻・お石には市川笑也を抜擢、加古川本蔵に松本幸四郎、その妻・戸無瀬に中村魁春、大星の子息・力弥に中村錦之助(『十一段目』は中村米吉)、本蔵の娘・小浪が中村児太郎、30年ぶりの上演となる『十段目』では天川屋義平に中村歌六、その妻お園に市川高麗蔵、『十一段目』の桃井若狭之助に市川左團次という顔ぶれだ。
『八段目』、俗称『道行旅路の嫁入』で幕が開く。東海道を本蔵の妻・戸無瀬と娘の小浪が、許婚者・力弥のいる京都の山科へ向かう様子を舞踊で現わす場面だ。魁春、児太郎の母と娘二人きりの舞台で、母は塩谷判官の事件をきっかけに、判官の刃傷を止めた加古川家と、止められたために本懐が果たせず、無念の死を遂げた塩谷の家老・大星家の両家の仲が今まで通りではないことを悔やんでいる。娘は京都での力弥との新しい暮らしに夢を馳せている。目的地が同じながら、全く違う想いを抱く母娘の道中が進む。
魁春の戸無瀬は、ベテランの女形の味わいをたっぷり見せ、児太郎の初々しさとよい対照だ。どんな役でも一ヵ月舞台を共にすることで、歌舞伎の伝統が無言のうちに伝わることを改めて感じる。魁春が父・歌右衛門を髣髴とさせる素振りを見せる。殊更に似せているのかどうかは分らぬが、間近に女形の名優の芸を観て来た役者が、今それを次の世代に教えているようだ。
二人が目的地・山科に着く。『九段目』、通称『山科閑居』だ。上演時間の関係で、ふだんは上演されない「雪転し」(ゆきこかし)という場面があり、大星が祇園での遊興を終えて、自宅に戻るところからの丁寧な上演だ。この場面があると、『七段目』からの芝居が続いているようでわかりやすいのと、大星の家での暮らしぶりや考え方が窺えて面白い。今月の由良之助は中村梅玉。十月の松本幸四郎、十一月の中村吉右衛門とは違った味わいで、壮大なストーリーの終盤を担う役柄、というせいもあり、理知的なリーダーという感覚が漂う。許婚者の戸無瀬・小浪の母娘が訪れるが、大星の妻・お石に素っ気なくあしらわれる。母親同士の緊迫感に満ちたやり取りが前半の見せ場だが、ここはどうしても戸無瀬の魁春に笑也のお石を圧倒する。芝居から言えば、逆の状況にならなくてはいけないのだが、国立劇場養成所出身の市川笑也が、古典の名作の大役に抜擢され、ベテランに勝負を挑んでいることは、後に続く人々には大きな刺激であり、希望にもなるはずだ。初演で名演とは行かないのは当然で、これを弾みにしてほしいものだと思う。
幸四郎の本蔵、最近演じる回数が増えて来た役の一つで、今回はさらに手強く、義太夫の「強気(ごうき)の本蔵」という詞章が生きる力強さがある。忠義のためばかりではなく、娘可愛さに自らの命を引き出物として差し出す親心をより効果的に見せるためにも、前半は憎々しい方が、後半のドラマが引き立つ。お石を挑発するために、高笑いを見せる辺りは、「忠臣蔵」に馴染みのない観客にもわかりやすい芝居だ。
大星の子息・力弥を演じる錦之助が、いい二枚目ぶりを見せている。実際の年齢では役の上で母に当たる笑也と同い年だが、若衆姿がおかしくなく、義太夫に乗っての芝居もきちんと見せ、聞かせる。50歳を過ぎてこうした役がはまり、本当の味が出てくる、という点が、古典芸能の深さであり、贅沢な部分でもある。
前回の通し上演以来、30年ぶりの上演となる『十段目』。大星たちの忠節を汲んで、命を懸けて預かった武器屋防具を守ろうとする天川屋義平の男気を見せる場面で、中村歌六の天川屋に、市川高麗蔵の女房・お園。これは演者の問題ではなく、義侠心から私心を捨てて大星一統に協力をしている義平の心の座り方を試すために、子供を人質にという感覚は、現代の観客の感性にはいささかずれるだろう。また、それまで観て来た大星由良之助の人間像が一瞬だが「ブレる」。というのは、厳しい態度で接するのはあくまでも塩冶の家臣、つまり身内であり、義平は外部の善意の協力者だ。それに対する感覚の差だろうか。しかし、こうした機会にでも上演しておかないと、古典歌舞伎の形式や荒唐無稽の本質が途絶える恐れがある。これからの歌舞伎は、こうした場面や考え方をどう扱うか、ということも問題になるだろう。
さて、いよいよ待望叶っての討ち入り、『十一段目』である。40分の上演時間の間に、高家表門から花水橋の引揚までの五場を演じるので、スピーディに見せる。「高家表門」で、討ち入りの装束に身を包んだ浪士が勢ぞろいするのは圧巻の迫力で、歌舞伎の贅沢さを感じる。この『十一段目』を細かく観てゆくと、場面によっては辻褄が合わないところも出て来るが、せっかくの本懐だ、野暮は言うまい。こうなるのは、この部分が、原作の物ではなく、それ以降に作られた「外伝」と呼ばれる『忠臣蔵もの』を集めた場面だからだ。高家方の守りを固める小林平八郎が尾上松緑。この一役だけなのはもったいない気もするが、スピーディな立ち回りを見せる。
本懐を遂げた一行が、師直の首を掲げて花水橋を引き揚げてくると、桃井若狭之助と出会い、今回の義挙を讃えられて幕、となる。市川左團次が若返って若狭之助を演じるのは年末のご馳走だろうか。この大プロジェクトの完結によって、我々日本人の中に『忠臣蔵』が持つ忠義や無私の感覚が、なにがしかの形でよみがえってくれればしめたものだ。我欲まみれの昨今だからこそ、他人のために命を捨てる行為がどういうもので、それがどう見られたのかに想いをいたすと、この壮大なドラマの影にも多くの人々の人生があったことを思わずにはいられない。