まず、今月から6月まで歌舞伎座に連続出演の予定だった市川左團次が、誰にも健康状態の詳細を知らせぬままに今月の舞台を「体調不良」で休演し、15日に82歳で急逝したのを悼む。若い頃は「赤っ面」の敵役に本領を見せていたが、年を重ねて役柄の幅が広がり、老け役や時にコミカルな味わいにも魅力を見せていた。主役を演じるケースはそう多くはなかったが、こうした個性的な持ち味の俳優がいることで、舞台の色彩が増し、味わいが深くなる。ことに、最近は滋味のある役柄も増えていただけに、ベテランの突然の訃報はショックが大きい。

ジャンルは違うが、先日、劇団民藝の創立メンバーとして唯一現役だった女優の奈良岡朋子が93歳で長逝した。晩年は、椅子に座ったままの朗読に力を入れていたが、この年齢まで現役を貫いたことは驚嘆に値する。歌舞伎に限ったことではないが、日本の演劇が80代前後の老優に支えられている事情は、決して褒められたことではない。とは言え、今すぐに変えられるものでもないだろう。

 夜の部は、昨年上演予定で中止になった片岡仁左衛門・坂東玉三郎の人気コンビで『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)、ご存じ「切られ与三」だ。79歳の仁左衛門、73歳の玉三郎共に、年齢を感じさせない美しさで、久しぶりに満員の歌舞伎座は大喝采である。同時にこうした顔合わせでの演目が、どれもこれも看板にそれとは銘打たぬまでも「一世一代」であることに、寂しさを禁じざるを得ない。

 出演予定だった左團次の代わりに、和泉屋多左衛門を河原崎権十郎、鳶頭金五郎を坂東亀蔵が代役で演じている。二人とも役の仁を得てキチンと代わりを勤めている。芝居の世界は、代役で新たな役柄を広げるチャンスもある一方、こうした代役は哀しくもある。

 仁左衛門の与三郎、いい若旦那ぶりだ。愛嬌もあり、カンの利いた高い声が若々しく透明感がある。歌舞伎の演目の中で「若旦那」にもいろいろな形があるが、自らが当たり役としている上方狂言の『吉田屋』の伊左衛門のような若旦那と似ているようでも、そこは江戸の若旦那だ。科白の切れ離れの良さと、ふとした動きが粋に見える。そんな「坊や」がそのまま大人になってしまったような与三郎が、人の妾である玉三郎のお富と関係を持ってしまったために、身体中を切り付けられ、悪の道へと転がり落ちる。普通に考えれば、これは明らかに与三郎とお富が悪い。しかし、そこが芝居、である。この役は鶴屋南北の作品のように、世間の底辺を這うように生きている根っからの悪人ではない。見どころの「強請」でも、どことなく駄々っ子めいた雰囲気が漂う。そのアンバランスとも言える感覚がこの役の妙味でもある。その辺りの緩急が見事なのはたいしたものだ。

 最初の「木更津見染」の場面では、海岸に見立てた客席へ降り、亀蔵の鳶頭と共に一階席を歩きながらの愛嬌たっぷりのお喋りに観客は大喜びだ。その姿を観て、1987年に大阪・中座で父の十三世仁左衛門と演じた『沼津』を想い出した。

 玉三郎のお富、いつまでも艶やかさを失わないのは見事だ。もともとが、時代物よりも世話物に本領を発揮する俳優で、まだ「新派」がゲストに頼りながらも本公演を打てていた時期に、幾つも良い舞台を見せたのもその特性のゆえだろう。そうした個性がこの役にも活きており、特に、ぞんざいではなく科白を放り出すように言うところはこの人ならではの「味」がある。また、芝居の運びを軽く進めているのが、良いテンポ感になり、与三郎の芝居を受ける間も、長年のコンビの成せる技で、安心して観ていられる「阿吽の呼吸」で見せてくれる。

 だからこその人気で、久しぶりに世話物の醍醐味を感じた。

 二本目が、尾上松緑、長男の尾上左近による舞踊『連獅子』。この舞踊は、通常は親子で踊るもので、今までにも多くの親子、あるいは祖父と孫などのコンビで上演されてきた名作、人気作である。親獅子が子獅子を千尋の谷へ突き落し、這い上がれるかどうかを見るさまは、芸道を歩む親子にはぴったりの演目で、曲も名曲だからこそ、演じ継がれているものだろう。

 舞踊に定評のある松緑、そして左近も実に行儀の良い、折り目正しい踊りだ。松緑が出た瞬間から気迫に満ちており、曾祖父が「踊りの神様」の七世松本幸四郎、踊りに定評があった祖父の二世尾上松緑、父の初世尾上辰之助と続くこの家の芸の「血脈」をみた思いがする。左近も、17歳とは思えない技量で、教えられた枠組み通りに踊っているが、父の気迫に負けない若さがある。

 後半は、ダイナミックに毛を振る見せ場があるが、場内の満場の拍手は、コロナ禍の中で歌舞伎が疲弊している中でも若い世代に新しい若い芽が育っていることを喜んでいるかのようだった。

 ベテランのコンビが見せる円熟の芸、中堅の役者とその子息の舞踊、二本ともに充実した感覚を持つ舞台だ。