大阪・松竹座は今年で開場二十周年を迎えた。その記念に加えて「八代目中村芝翫襲名披露興行」で幕を開けた。昨年、歌舞伎座で十月、十一月の襲名披露公演の引っ越し興行の形だ。

 現在では、大阪で恒常的に歌舞伎を開ける劇場は、松竹座だけになってしまった。恒常的と言っても、年に二回から三回である。かつて「道頓堀五座」の名で、松竹座からすぐの道頓堀川に劇場を連ねていた時代があった。その中で、「中座」「朝日座」での歌舞伎公演は記憶にある。「朝日座」は文楽を主にした劇場だったが、1984年の閉場公演の折に、「歌舞伎・文楽合同」でお別れ公演を持ったことがある。それから30年以上が経過した、ということになる。

 さて、夜の部は、新春を寿ぐ舞踊『鶴亀』で幕を開ける。歌舞伎界最長老の坂田藤十郎が女帝を勤める短い舞踊だが、一年の初めを自分の本拠地である関西の劇場でスタートするのも気分が良いものだろう。新・中村芝翫の三人の子息、中村橋之助、中村福之助、中村歌之助がそれぞれ鶴・亀・従者を舞い、一年の始まりをめでたく舞い納める。三人とも、まだ身体に硬さがあり、習ったことを行儀よく披露している、というところだが、新しい名前と共に役者の修行の第一歩を踏み出したばかりだ。三兄弟のこれからの研鑽を待とう。

 次が『口上』。親子二代で同時に四人襲名、というのは歌舞伎界初のことで、出演者の面々がお祝いの言葉を述べる。下手の端に別座を設け、中村芝喜松が中村梅花を襲名する披露も行われた。成駒屋一門に長く尽くして来た役者がこうして報われることは大事だ。主役だけで芝居が成り立つものではない。長年、陰になって一門を支えて来た役者に光を当てることも、歌舞伎には重要な仕事だ。

 次が、夜の部での芝翫の披露狂言となる『勧進帳』。片岡仁左衛門の富樫、中村魁春の義経と大ベテランの胸を借りた、贅沢な一幕だ。弁慶は立役なら誰しもが憧れる役で、芝翫も橋之助時代の1994年に京都の南座で初役を経験ずみで、今回が三回目となるが、残念ながら期待ほどには良くない。一口に言うなら、すべての芝居が大振りで力が入り過ぎ、弁慶の芝居に緩急がないのだ。ご馳走とも言える仁左衛門の富樫との問答も盛り上がりや緊迫感に欠ける。仁左衛門の爽やかな口跡も、弁慶との緊迫したやり取りがあってこそ十二分に生きる。ごく僅かな何かが噛み合わないと、お互いに思う存分力を発揮できずにこういうことになってしまう、その典型だ。加えて、魁春の義経も良くない。源氏の御大将であるべき品格が感じられず、女形が演じる機会があるこの役も、立役と女形のどっちへ寄っているのかが判然としない場面がある。科白を言う時には立役だが、座っていると女形に戻ってしまい、奇妙な感覚を覚える。夜の部では最も楽しみな一幕だっただけに、なおのこと歯車の食い違いが惜しい。

 最後が『雁のたより』。東京ではあまり馴染みのない、純然たる上方狂言で、髪結いの「三二五郎七」(さんにごろしち)と仲居のお玉の愛嬌と軽さで見せるのが身上の芝居だ。中村鴈治郎が五郎七を上方歌舞伎の復権のために演じているが、今一つ軽さに欠ける。筋らしい筋はないに等しいようなもので、有馬温泉での出来事を軽妙に描写しただけの芝居で、ストーリーよりも役者の持ち味で見せる芝居だ。片岡孝太郎のお玉が、初役ながらこの芝居の本質であるばかばかしさを最も表現していた。

かつて、この演目は上方の実川延若、中村鴈治郎、片岡仁左衛門の三つの家で持ち役とし、それぞれの時代に応じて演じて来た。しかし、今は、こうした役者の味わいに多くを依存する芝居はなかなか難しいものになった、という事実がある。それは、役者側の問題だけではなく、時代の移ろいと共に、観客の感覚も変わったからだ。一例を挙げれば、主役である三二五郎七の花道の出入りに、その役者の家の紋を歌詞に織り込んだ合方が演奏される。当然、演者によって文句も変わるわけで、こうしたこともかつてはこの芝居の楽しみの一つだったはずだ。しかし、今の観客に「ここを楽しんでくれ」というのも無理な話だ。そうしたことの積み重ねが、演じにくく、また、わかりにくくなっている要因の一つでもあろう。こうした現象に対して、「昔通り、これはこういうもので」とするのか、「どうしたら、現代の観客に楽しんでもらえるような作りになるのか」とするのか。歌舞伎は、もっと緩やかな、大衆に近い場所にいる芸能ではなかったのか。『雁のたより』が今の観客との距離が開いていることを想うと、そこが残念だ。

しかし、これは『雁のたより』だけに限った問題ではない。ここに、歌舞伎のこれからの宿題、があるのではなかろうか。