歌舞伎には、江戸の昔から「世界」という言葉がある。作品を創るに当たり作者たちが使う言葉で、今で言えば「テーマ」「世界観」などに相当するだろう。「次の作品の世界は『源平の戦い』で行きましょう」のような使われ方だ。昨今、アニメや歌舞伎以外の分野の作品を「世界」に据えた新作歌舞伎が多いのは見ての通りで、今度は人気ゲーム「ファイナルファンタジー」を「世界」に据え、ゲームと歌舞伎のコラボレーションとなった。

 主演の尾上菊之助は、このゲームの大ファンで、5年程前から歌舞伎化の構想を持っていたと聴く。「コロナ禍」以前から、このゲームの歌舞伎化を考えていたことになる。今回舞台化された「ファイナルファンタジー」は、コンピュータで行う「RPG」(ロールプレイングゲーム)で、ゲームの進行と共にキャラクターが成長しながら物語が進んでゆくものだ。1987年に第一作が発売され、その後、シリーズを重ねて、この「X(10)」は2001年に発売され、今年は「XVI」(16)が発売される予定だと聞いた。私も、シリーズの最初の方で何シリーズか遊んだ記憶があり、累計の発売本数ではギネス記録を持つ世界的な人気のゲーム・ソフトだ。

 今回は、それを豊洲の市場駅近くの「IHIアラウンドシアター」で、昼夜通しで幕間や入れ替えを挟み、約9時間掛けて上演している。この劇場は従来の劇場とはかなり構造が違い、観劇中に客席がゆっくりと回転する。円形劇場の廻り舞台の上に観客席が乗っかっており、その外周で行われる芝居を観ていることになる。客席が芝居中にゆっくりとではあるが、動いているのが分かるほどの速さで回転するため、一幕終わると、開演前には左前方にあった通路が右前方に変わっていたりするのも面白い。必要に応じて客席が360度回転する間に、スクリーンには美しい画像が投影され、観客は否応なしにゲームの世界に没入することになる。これは他の劇場ではできない試みで、「ゲーム」×「劇場構造」×「歌舞伎」ということになろうか。

 尾上菊之助、中村獅童、尾上松也の3人を中心に、中村米吉、中村梅枝などの若手に中村錦之助、坂東彌十郎、中村歌六らのベテラン勢が加わり、尾上菊五郎は声での出演。ストーリーは、非常に大雑把に言えば、菊之助が演じるティーダという水中競技のエース選手が、米吉が演じるユウナと共に、松也のシーモアと闘う「冒険活劇」だ。その物語を、テクノロジーの先端にいるゲームの世界の中で演じる。ストーリーの展開も早く、何よりもビジュアルが美しく、ゲームを知らない人でも充分に楽しめる作品だ。

 それでもなお、いわゆる「古典歌舞伎」のファンからしすれば「またそのパターンか」ということにもなろう。それは否定しようのない感情であり、もっともだと言える。しかし、その一方で歌舞伎400年の歴史を考えてみれば、その時代のトピックスや先端を行く物を取り込みながら成長して来た「芸能の」本質を、この作品は備えていることになり、その「令和版」との見方もできよう。劇場の廻り舞台にしても、200年以上前に、世界に先駆けて歌舞伎の舞台機構として発明されたものだ。最近、「傾き者」という言葉が、本来の意味よりも広範囲で使われている気味があるが、歌舞伎が現代で「傾く」とすれば、この公演などはまさにその好例だろう。

 菊之助は、このゲーム、そして世界観や構造に惚れ込み、自ら企画立案、演出にまで携わるだけあって、熱演である。普段の歌舞伎の舞台で見せる姿とは違った、新しい魅力だ。これも、歌舞伎役者としての基礎がしっかりしているからで、そうでなければ普通の芝居になってしまうところだ。獅童も松也も米吉も、生き生きと新しい世界観の歌舞伎を演じているのが分かり、観客も楽しんでいる。言うまでもなく、どんなに有名で立派な古典作品も、初演時は「新作」であり、それが回を重ねて名作になった。その点で言えば、この『ファイナルファンタジーX』は、IHIアラウンドシアターという特殊な構造の劇場でしか上演できない。また、この劇場もこれでラストシーズンとなり、この形での再演はないだろう。

 もう一点、アニメと歌舞伎のコラボレーションなどの折に必ず話題になるのは、「若いファンや新しいファンは、歌舞伎ではなく原作のファンで、他の歌舞伎は観ない」と言われる問題だ。確かに、一面の真理ではある。しかし、「コロナ禍」や俳優、観客を問わずに急速に進む世代交替の中で、いたずらに手をこまねいているわけには行かない事実がある。今が歌舞伎の世代交替などを含めた「過渡期」である以上、いろいろな試みはして然るべきだろう。「トライ&エラー」の精神をなくした瞬間、何であれ進歩も進化も止まる。歌舞伎に限らず、「演劇」が時代と共に変容する宿命を背負った芸能である以上、多少の批判や異論があろうとも、やらずにいるよりは良い。ただ、道楽ではない以上、観客の支持が得られるかどうかが問題だ。はっきり言って、アクセスが良い、周囲の環境が整っているとは言えない劇場で、昼夜通して約9時間の舞台を観るのは、金銭的にも肉体的にも過酷な話だ。しかし、にも関わらず観客席の多くが埋まり、観客は喜んでいた。これが答えだろう。

 古典のレパートリーを繰り返し上演し、練り上げるのは全うな方法だ。しかし、それだけでは徐々にレパートリーは減少せざるを得ない。この作品が即穴埋めになるとは言えないが、向かおうとしている「精神」は間違っていないと私は思う。「古い革袋に新しい酒を」注ぎ、革袋を満たし、馴染むには時間がかかる。そのための実験的挑戦としての価値は多いにあった公演だと言えるだろう。

 ただ、たった一つだけ言うならば、「新作」はあくまでも「古典歌舞伎」の精神の上に立脚していなくてはならない、ということだ。今まで多くの新作歌舞伎を手掛けてきた菊之助、そこはキチンと分かった上でのことだろう。これからの歌舞伎の中核を担うべき一人として、これほどの大きな仕掛けを軽々にするわけはない。

 今、いろいろな点で歌舞伎も新しい世代の手により、変容を遂げようとしている。このところ、劇場や作品によっては、あえて観客に携帯電話を取り出させ、「撮影タイム」を設け、ツイッターやインスタグラムなどで舞台の様子の拡散を呼び掛ける舞台も増えた。「コンピュータ版口コミ」だ。他のジャンルでは以前から行っていたが、俳優の著作権や肖像権にあれほど喧しかった歌舞伎も、時代の趨勢には勝てず、若干とは言え観客に対しての姿勢を変えた。これは大きな変革である。

 難しいのは「次の一手」だ。「歌舞伎」の上に立脚したコラボレーションの楽しさを知った観客を、次はどんな舞台で楽しませるのか。昨今の若手を中心とした歌舞伎の見せ方、アプローチの仕方に、そのヒントがあるような気はする。次の段階で、「古典歌舞伎」をどう見せるか、新しい試みが成功すれば、令和の歌舞伎界に新たな光が差し込む予兆を感じた舞台だ。

尾上菊之助(右)と中村米吉(左)
撮影:引地信彦、©『新作歌舞伎 ファイナルファンタジーX 製作委員会』