初代中村吉右衛門の業績を偲ぶために、吉右衛門の俳号・秀山の名を付けた記念の「秀山祭」。今回は、孫で二代目の名を継いでいる吉右衛門、曾孫に当たる市川染五郎などを中心とした一座である。夜の部は、時代物の大作『妹背山婦女庭訓』の中から『吉野川』。客席に両花道を設え、観客席を吉野川に見立てた壮大なスケールの芝居は、一幕で二時間に及び、なかなか上演の機会がない。川を挟んで仲違いをしている男の息子と女の娘が恋に陥る話は、よくシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に例えられるが、一概にそうとは言えない部分もある。確かに設定は酷似しているが、最も大きな違いは、若いカップルの死で終わるか、その後の親を描いているか、の違いだろう。

 太宰の後室(未亡人)・定高(玉三郎)と領地の問題で争っている大判事(吉右衛門)にはそれぞれ子があり、定高の娘・雛鳥(菊之助)と大判事の息子・久我之助(染五郎)は恋仲である。しかし、親同士が許さぬ以上、結婚をすることはできない。そこへ、朝廷から娘を差し出せ、との難題が降りかかり、恋しい久我之助と添えずに入内するぐらいなら死を選ぶ、と泣く雛鳥。喧嘩相手の大判事は憎いものの、可愛い娘に不憫な想いをさせたくはない。そうした母心が、玉三郎の中で葛藤する。美貌は相変わらずだが、古典の時代物の科白となると、いささか軽く感じられる。一方、吉右衛門の大判事は、つくりが老け過ぎているせいなのかどうか、いささか科白にも精彩を欠いているのはどうしたことだろうか。もっときっぱりと演じてよい役だろう。娘・雛鳥の菊之助。立役も女形も演じられる長所が、この役に関しては仇になった感がある。うぶな少女の恋愛感情の表現にはいささか乱暴に見え、多くの男性経験がある女性のように見えてしまう。対する久我之助の染五郎。白塗りの二枚目が良く似合う。特に、切腹をしてから幕切れまでの約30分間、突っ伏したままの姿勢で微動だにしないのは立派な「芸」である。菊之助の祖父・尾上梅幸が「動かない芸」では定評があったが、これは難しいことだ。

 主な登場人物はこの四人で、二時間に及ぶ物語を支える必要がある。そのために上演には適役を得ないとなかなか難しいが、今は特に女形が払底している時期だ。こうした芝居がだんだん上演しにくくなっている事も、歌舞伎が真剣に考えるべき問題ではあるが、明解な回答はなく、しかも短時間で成果が出せないところに悩みがある。

 次が、落語で馴染み深い「らくだ」を明治期の劇評家・劇作家の岡鬼太郎が劇化した『らくだ』。フグに当たって死んだ、長屋の嫌われ者の通称・らくだの友達と称する半次と、出入りの屑屋・久六が繰り広げる喜劇で、堅気ではない半次の松緑と実直な屑屋の久六の染五郎の掛け合いが見ものだ。特に、気が小さくて律儀者の屑屋が酒を振る舞われ、だんだんに性格が変わってゆく様子を染五郎が丁寧に演じ、笑わせる。前の『吉野川』とは180度違った芸を見せ、大活躍である。当然ながら一言も科白はないが、死体役の亀寿の頑張りには拍手を贈りたい。渋くて因業な大家を演じる歌六におかし味がある。こうした老け役がいい味わいになって来たのはこれからの歌舞伎には貴重だ。

 最後が舞踊の『元禄花見踊』。玉三郎を中心に、亀三郎、亀寿、隼人、梅枝、種之助、米吉、児太郎などの若手が顔を揃えて、華やかに打ち出す。時代物、世話物、踊りと三本立てで豪華な顔ぶれで歌舞伎を堪能させてくれる一方で、大一座として眺めると、やはりベテランと若手の技量の差は一目瞭然だ。誰しも若い時から名優であるわけではなく、多くの経験を経て自分の「芸」を創り上げてゆくものだが、女形のみならず、脇役の減少、古典歌舞伎の見せ方など、多くの問題をはらんでいるのが現状でもある。

 それを乗り切るには、一年や二年という時間の問題ではない。しかし、希望の光とも言えるのは、若手の役者たちがベテランと舞台を共にすることで、芸の幅や寸法が伸びてゆくことだ。役者は、舞台へ出て、場数を重ねて成長をする。若手たちが、ベテランの芸をどう吸収し、次の時代の歌舞伎をつくるのか、その試金石とも言える舞台でもある。