長い間、御園座の名物だった十月の名古屋の顔見世公演も、御園座改築に当たり場所を移しての開催となった。今年は片岡仁左衛門を座頭に、中村時蔵、市川染五郎、片岡孝太郎らの顔ぶれである。名古屋は、中心部から一時間半の圏内に愛知県は言うに及ばず、静岡県西部、三重県、岐阜県を擁しているためか、遠方からの観客の帰りの足を考えて、伝統的に夜の部の終演が早い。厳密に比較検討をしたわけではないが、今までの感覚的な根拠で言えば、終演が8時から遅くとも8時半が目安だろう。それ以降になると、どんなに良い場面でも、観客が席を立たざるを得ない場合がある。大都市でありながらなのか、あるゆえになのか、面白い現象だ。

 夜の部には、『寺子屋』、舞踊の『英執着獅子』、落語種の『品川心中』の三本が並ぶ。四時開演で終演が七時四十分。演目や上演方法にもよるが、「みどり」と呼ばれるお馴染みの演目を集めた公演の場合は、このぐらいの上演時間が、現代の観客の生理には一つの物差しになるのかもしれない。

仁左衛門の松王丸、孝太郎の女房・千代、染五郎の武部源蔵、梅枝の女房・戸浪で上演した『寺子屋』が昼夜では一番の出来だ。有名で人気演目なだけに、ずいぶん多くの顔ぶれで演じられており、私自身も何十回も観た芝居だが、仁左衛門の松王丸がその下の世代を引っ張り、緊張感に満ちた一幕になった。自らは心ならずも敵方へ回ってしまったが、主君・菅丞相(かんしょうじょう)への忠義のために我が子の首を討つ松王丸夫婦の悲劇を描いたこの芝居、仁左衛門の松王丸が圧巻の貫禄で見せる。芝居ぶりの大きさ、科白の活け殺し、いずれも見事だ。それに負けじと、対立する染五郎の源蔵が裂帛の気合いで掛かり、時代物の王道の味を感じさせた。孝太郎は仁左衛門の子息だが、内輪に締めた芝居で声も低く落ち着き、夫婦でも違和感がない。ただ、源蔵の妻・戸浪の中村梅枝はこのメンバーの中でもう一世代若いせいか、まだ形や動きに終始してしまい、忠義ゆえに起きる悲劇の哀しみの輪の中に入れず、傍観者のようになってしまったのが惜しい。

続いて時蔵の舞踊『英執着獅子』。能の『石橋』に題材を求めた作品で、最初は姫の美しさを見せ、その後、獅子の精に変わる。美しく華やかな舞踊で、後半は躍動感もある女形舞踊の名作だが、時蔵の踊りがどうも段取りめいてしまい、艶やかな様子に陶酔する、というところまで行けない。

最後は落語の「品川心中」を歌舞伎にしたもの。染五郎の幇間・一八と梅枝の女房おたね、坂東新悟の品川の女郎・おそめが巻き起こす騒動だ。一時間弱の上演時間でテンポ良く話が進み、運びに無駄がない。染五郎の一八の軽さに、世話女房の梅枝も『寺子屋』よりもこちらが良く、うまく助けている。新悟のおそめも一生懸命さは買えるが、最初の『寺子屋』に変わって今度は染五郎が主役兼「お兄さん」としてみんなを引っ張る熱演ぶりだ。

改めて言うまでもないが、歌舞伎の舞台はこうして多くの年代層が一本の芝居を演じることで、その芸や精神が引き継がれて来た。女形や脇役の顔ぶれを考えると、役者の層が厚いとは言えない時期の今、どのように芸が継承されてゆくか、これは名古屋の顔見世だけの問題ではなく、歌舞伎界すべての問題だ。若手の外部での活躍や新作の上演などへの感覚も一通りではない。「どれが正解」というものはないのだろうが、古典芸能である以上は、「古典」の土台の上にすっくと立った上で、新たなる地平への冒険を試みるべきだと私は思う。その点で言えば、今の二十代、三十代の役者が古典作品とどう対峙するか、難しい時期にいる。その中でそれぞれが自分の役割をコツコツと果たしてゆくことが、歌舞伎の未来への最も近道ではないのだろうか。