今まで、八月公演だけしか行わなかった「三部制」を、試験的に他の月にも拡大したようで、今月は歌舞伎の「三大名作」の一つ、『義経千本櫻』を三部に分けて、通しに近い形で上演している。『義経千本櫻』であれば、平知盛、いがみの権太、佐藤忠信という三人の男を軸に据え、その運命を描くという考え方で場面を選べば、三部に分けて上演するには適切な名作だ。市川染五郎、市川猿之助が朝から夜まで大奮闘し、松本幸四郎が「上置き」の存在で第二部の「いがみの権太」を演じる、という構成も、観客の年代の広さに応えられる仕組みだ。三部に分けると、各部の上演時間が3時間程度で、従来の二部制の4時間~4時間半という上演時間に比べ、通常のストレート・プレイ一本分ですみ、一日がかりでなくとも歌舞伎が観られるのが何よりも気軽で良い。
第一部は、平知盛を中心にした『渡海屋・大物浦』に道行『時鳥花有里』(ほととぎすはなあるさと)。染五郎の銀平・実ハ平知盛、猿之助のお柳・実ハ典侍の局、尾上松也の源義経、市川右近の相模五郎に、右近の長男、武田タケルが安徳帝で初お目見得というメンバー。
染五郎の銀平、花道からの出の瞬間が絵のような決まり方で、芝居の骨格がずいぶん大きくなった。この世代でこういう役がしっくり来るという点では、頭一つ抜けている。特に、後半、平知盛という素性を現わし、手負いになってからは、これから死にゆく武将の悲哀が加わる。科白が低めで重厚感を感じさせようとの努力も効果的に働き、この物語の前半を担う主人公の悲劇を、たっぷりと堪能させた。力演、である。
猿之助のお柳。前半の世話女房の部分は悪くないが、後半、典侍の局に変わってからは、まだ安徳帝を抱く高位の女官の貫禄が出ない。芝居がいささか大ぶりになるせいもあるだろう。ここは、動きを抑えながら内面の哀しみや葛藤を見せられればもっと良かっただろう。猿之助に抱かれる安徳帝のタケル、初舞台ながらたいしたものだ。父の右近が、相模太郎で見守っている。
尾上松也の義経、こういう気品だけで見せる役は、登場した瞬間の第一声が肝心で、この時に源氏の「御大将」に見えるかどうかが決まってしまう。努力賞というところだ。メンバー全員が若いから、このチャンスを活かして義太夫の芝居を勉強するにはよい機会だ。特に、この場の義経は、知盛が入水して幕が閉まった後、一人で花道を引っ込むという大きな仕事がある。ここで、この場面の「余韻」を残せるかどうかが勝負だろう。
『義経千本櫻』という長大で演じる役者には課題が多い作品を、こうして若手の旬の役者たちが中心に上演できるようになった、ということに喜びを感じると同時に、改めて歌舞伎のこれからの伝承、をも考えさせられる。上演形態の工夫の次は、内容のテキストレジーという大きな問題もある。古典を「今はわからないから」と無暗にカットするだけの暴挙は避けたいが、今の観客の生理や感覚に合わせた見直しは必要だろう。
続いて、道行『時鳥花有里』。江戸時代の作に、常磐津の同名の曲があるが、これは今回のための新作だと聞いた。中村梅玉の源義経、中村魁春の白拍子三芳野、中村東蔵の鷲の尾三郎、染五郎の傀儡師染吉、という顔ぶれ。しかし、この「道行」の意味が分からない。『義経千本櫻』には、第三部で上演される『道行初音旅』(通称「吉野山」)という立派な「道行」がある。一本の芝居に「道行」が二つあってはいけないという理由はなく、『仮名手本忠臣蔵』にも『落人』と八段目の『道行旅路嫁入』があり、どちらも度々上演されている。
ただ、この『時鳥花有里』については、いかにも作りが雑、としか言いようがない。恐らく、『渡海屋・大物浦』だけでは上演時間が短いのと、たっぷりした時代物の後で気分を変える意味があったのだろう。その発想で新たな舞踊を付けることは悪い発想ではないと思う。しかし、魁春の白拍子、つまり踊り子が義経に対して上から物を言うのはどう考えても奇妙な話で、これが何かの神の化身で、その正体を顕わした後というのであればまだしも、辻褄の合わない部分が多い。
染五郎の傀儡師が、何度も面を変え、踊りの達者さを披露するのが救いだが、知盛を演じた後でこの一本は気の毒としか言いようがない。何か他の工夫はなかったのだろうか。
第二部、第三部とそれぞれにみどころがある名作だけに、他の部がどんな芝居を見せてくれるのかが楽しみにしておこう。