20世紀を代表する作家の一人、サマセット・モーム(1874~1965)。『人間の絆』や『月と6ペンス』などの小説は愛読者も多いが、残念ながら小説に比して戯曲の数はそう多くはなく、更に日本で上演されたものとなるとそう数はない。そのモームの戯曲『聖なる炎』が俳優座劇場プロデュース公演で38年ぶりに上演されている。これは、劇団俳優座としての公演ではなく、劇団が有する「俳優座劇場」が、作品に適したキャスト、スタッフをセレクトして行う公演だ。今回も俳優座だけではなく、文学座、演劇集団円、青年座、昴ほか多彩なメンバーだ。誤解を招くと困るが、映像や大掛かりな舞台で名前が売れている俳優ばかりが巧いのではない。いわゆる「新劇」の畑で、地道に修練を積んで来た俳優たちの演技を、劇団の枠を超えて作品本意で見せる俳優座劇場の試みは、今回で「117回」目となる。この見識は、もっと高く評価されてしかるべきだろう。志だけではこの回数は続かない。

 さて、肝心な芝居の内容だ。ロンドン近郊の、まあ裕福な暮らしを送っているタブレット夫人邸のやや古びた客間が舞台。夫人の長男・モーリスは、第一次世界大戦後、飛行機の試験飛行中に墜落、命は取り留めたものの下半身麻痺でベッドに寝たきりで自分では何もできない状況だ。住み込みのウェイランド看護婦と、通いの医師・ハーヴェスターの手厚い看護を受け、美しい妻・ステラがおり、弟のコリンも仕事先のグアテマラから帰って来ている。身体が不自由ながらも、明るく振舞うモーリスを中心に、温かく見守る家族たち。しかし、ある朝、モーリスが薬の飲み過ぎで亡くなっているのが発見された。これは、自殺なのか他殺なのか。しかも、モーリスの妻・ステラが妊娠していることも発覚した。当然ながら、夫・モーリスの子ではない。では、父親は誰なのだろうか? 一見平穏な家庭に荒波が立ち始めた…。

 ここまでの粗筋を書くと、ホームドラマにサスペンスの要素が加わった作品のように見える。しかし、モームの本領はそうしたドラマの裏にある。ここで、タイトルの意味が重要になる。邦訳の『聖なる炎』とは一体何を指すのだろうか。ネタを明かすことになってしまうが、三幕で、犯人が自白をする。「私が、息子のモーリスを殺したのだ」と。

 登場人物がそう多くない作品であり、観劇中に犯人の目星は付く。しかし、犯行の動機を淡々と語るタブレット夫人の言葉の組み立てに、モームの仕掛けの巧さを感じる。タイトルの『聖なる炎』とは、この家庭の中における「性欲」のことだ。夫人は語る。「ステラは、結婚して間もないのに、若者が持つ健全な性欲を満たすことができずに苦しんでいた。夫への愛情はあるのに、子供を持つことはできない。そこへ、夫の弟・コリンが外国から帰って来た。この二人に愛情が芽生えるのを否定することはできない」と。その一方で、モーリスがステラのへの愛を満たせない苦悩も痛いほどにわかっていた。母として、女性として、精神的な葛藤と苦しみの限界に達している長男の命を自らの手で断つことにしたのだ、と。

 犯人の開き直りのようにも聞こえる説明だが、観客が倫理的に受け入れられるかどうかは、その技量を俳優が持っているかの問題であろう。文学座の小野洋子は、タブレット夫人の感情をごく自然に、そして充分な説得力で演じて見せた。その裏側に、人生の歳月をチラホラと感じさせる辺り、まさに年功だろう。寝たきりで芝居が制限される俳優座の田中孝宗が演じるモーリスは、のちに起きる悲劇の予兆を全く観客に感じさせずに演じたのが良かった。ひどい事故に遭ってもめげることない一家の長男坊の振る舞いが明るくにこやかであればある程、後の悲劇が際立つ。モーリスに愛情を寄せていた昴のあんどうさくらの看護婦、性格の読み取りようのない冷酷で直線的な演技が、終幕に人間らしさを見せる、その切り替えが鮮やかだ。夫人の古い友人で、演劇集団円の吉見一豊のリコンダ少佐、面白いもので、そこに顔を出すだけで場の雰囲気が変わる。こうした仕事は、10年や20年の経験でできるものではない。医師・ハーヴェスターの加藤義宗、医師としての立場や自分の金銭欲の間で感情が揺れ動く様子が丁寧だ。文学座の小野洋子が演じるタブレット夫人は、堂々としているが押し付けがましさはなく、たとえ「殺人」であろうとも自分が犯した行為に対し、キチンとした信念と理念を持っている。

 コロナ禍も一段落の気配を見せ、劇場にも観客が戻り始めている。しかし、人によっては3年ほど劇場へ足を運ばない期間もあっただろう。そういう人々を、再びよき観客にできるかどうかは、知恵を絞るしかない。売れっ子を並べるのも方法の一つで否定はしないが、演劇界の中にある良質の作品を提供するのも立派な方法の一つだ。今回の舞台は、その証明とも言えるだろう。