著名な作家が若い頃の習作時代などに書いた作品を「若書き」と呼ぶ。場合によっては玉石混交だったりするケースがあるが、アメリカ現代演劇を象徴する劇作家の一人であるテネシー・ウィリアムズが、1937年、26歳の折にこれほど骨格の太い芝居を書いていたというのは驚きだ。しかも、発表当時にアマチュア劇団で上演されただけで、活字になったのが2004年、作者が亡くなって21年後のことであり、日本では今回の舞台が初演となる。アメリカ・アラバマ州の炭鉱の町で貧困に喘ぐ人々の姿を10年間の間に三世代の人物を主軸に描いたこの作品は、非常にがっしりとした骨格を持ち、若書きでありながら破綻なく緻密に計算されている。翻訳者の吉原豊司によれば、この作品にはジョセフ・フェーラン・ホリフィールドという共作者がおり、この人が書いた一幕劇を、ウィリアムズが二幕十場という構成に膨らませたもののようだ。

テネシー・ウィリアムズの作品と言えば、民藝でも手がけてきた『ガラスの動物園』、『やけたトタン屋根の上の猫』、そして代表作とも言うべき『欲望という名の電車』など、女性が主人公の作品が多いが、これは炭鉱の町が舞台になっているだけに、男の芝居である。しかし、その男たちを支える女性の姿に、後の作品の主人公になる女性の姿が垣間見える。食うや食わずのギリギリの貧困に喘ぎ、炭鉱会社に搾取されながらも、それしか生きるすべを持たない男とその家族。しかし、現状打破のために、「組合」を結成し、ストライキを起こそうとする動きが起き、今までに多くの犠牲者を出して来た住人が立ち上がる。しかし、不景気の中で炭鉱を維持するのが精一杯の会社との間に争議が勃発する…。この作品が上演された1937年は、和暦では昭和12年に当たり、日本がだんだんきな臭くなっていく時代に符合する。この当時に、アメリカの労働者が立ち上がる姿を描いていたウィリアムズの未上演作品があり、それが約80年近くの歳月を経て再び陽の目を見ることは快挙であり、劇団民藝の面目躍如たるものがある。

主人公の炭鉱夫・ブラム(千葉茂則)の亡き息子の妻、つまり二世代目に当たるファーンを演じる日色ともゑの芝居が、地に根を張ったような強さを持って迫る。愛する夫を炭鉱の事故で亡くし、三世代目に当たる自分の息子・ルーク(岩谷優志)だけは学校へ行かせようと貯めたお金を、ルークは自らも炭鉱へ入ったばかりか、町の人々を助けるために使うと言う。打ちのめされるような哀しみに、狂乱寸前まで陥るが、組合を結成しようと懸命な炭鉱夫・レッド(吉岡扶敏)の言葉に心を動かされる。こうした極端な感情の動き、その発露が、激しく力強い芝居で示される。時に、人生を達観したような科白は、若きウィリアムズが書いたとは思えないほどの密着感を持って、彼女の口から説得力を持って発せられる。彼女の科白一つで、元より暗い家の中の闇がより濃くなる時もあれば、窓から光が指すように感じることもある。役者が放つ科白の力を感じた想いがした。

こうして、丹念に良質な芝居を掘り起こそうとする民藝の姿勢は、粗製濫造の多い演劇界の中にあっては評価されるべきことだ。地道な活動ではあるが、この志は立派だ。もう一点、日色の息子・ルークを演じている岩谷優志が掘り出し物だ。真っ直ぐな癖のない芝居で、衒いのない若者ぶりを見せる。聞けば、今回が昨年の『無欲の人』に続く二回目の舞台で、今年24歳だと言う。こうした若者が、民藝のような劇団で芝居の勉強を志すことが嬉しいし、また、そういう若者を伸ばしてやりたいものだ。

昨年、『八月の鯨』で年を終えた民藝の年明けの公演、続けてヒットを放った感じだ。