20年ほど前、東京・森下にあった小劇場「ベニサン・ピット」でデヴィッド・ルヴォーの演出作品をよく観た。あの頃はルヴォー・ブームと言ってもよいほどで、多くの演劇人がこの演出家の才能を高く評価した。小劇場の濃密な空間の中での人間模様を、時には息詰まるほどの苦しさ、緻密さで描いたルヴォーの演出は、新鮮な感覚を持って歓迎された。今回上演されている「昔の日々」は、現代のイギリスを代表する劇作家、ハロルド・ピンターが生前、演出をルヴォーに託していた作品だと言う。住宅の一室の中で巻き起こる濃密な人間関係の背後にあるものを、ルヴォーの手によって炙り出してほしかったのだろうか。
静かな海辺の片田舎に暮らすディーリー(堀部圭亮)と妻のケイト(若村麻由美)のもとへ、ケイトの「唯一の」友人であるアンナ(麻実れい)が20年ぶりに訪ねて来る。登場人物はこの三人だけだ。久しぶりに旧友に再会するケイトにはさしたる喜びも見られないまま、アンナが現われる。かつて、ロンドンでルームメイトとして過ごした若き日々の想い出を情熱的に語るアンナに、ケイトは芳しい反応を見せない。不思議な一夜が時を刻む間に、三人の関係性に意外な真相が見えて来る…。
ピンターの戯曲は難解なものも多いが、この作品はその中でも屈指、と言えるだろう。自分の作品を知り尽くしている演出家に託した作者の気持ちも良く分かるが、なかなか一筋縄ではいかない芝居だ。まして、家の一室での濃密な時間を描くドラマには、日生劇場はいささか広すぎる感は否めない。科白や想いが拡散してしまうのだ。ルヴォーの演出がすべて小劇場のものだ、とは言わないが、この作品自身は大きな劇場には向かないだろう。
ルヴォーの演出作品への出演経験が多い麻実れいは、もともと芝居の寸法が大劇場の女優であり、その特質を巧く活かした芝居になった。しかし、若村麻由美の芝居が収縮と拡散のどちらへ向かうのかはっきりとしなかった。両者の演技の方法が違ってしまうと、作品の性質上、終盤へ向かっての辻褄が合わなくなる。ここを巧く解決できれば、もっと作品の濃度が上がっていただろう。堀部圭亮のディーリーはどちらへ傾くとも言えないが、その分、印象的になるはずの後半の芝居のテンポが出なかったのが惜しい。
もっとも、ピンターの芝居を大がかりに演じる機会もほとんどなくなってしまった今、この挑戦は果敢なる心意気として評価したい。もう一つ、プラスされる要素があれば、舞台の内容ももっと濃厚な味わいを見せたはずであり、それがもったいなかった。