演劇批評

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「からゆきさん」 2015.11.19紀伊国屋ホール

 戦後70年を機に「先の大戦」の際の、「いわゆる従軍慰安婦」の問題が誤報や虚報が入り乱れて話題になっているが、この物語はそれに遡ること40年、日露戦争前夜の1903年から1911年までシンガポールに置かれていた娼館の話だ。宮本研の作品を伊藤大が演出し、綱島郷太郎が演じる日本から若い女性を連れて来る女衒(ぜげん)・巻多賀次郎と、シンガポールへ連れて来られた女性たちの物語だ。 続きを読む

「若き日の信長」 2015.11.05 歌舞伎座

 今月の顔見世興行で、市川海老蔵が大仏次郎の『若き日の信長』を演じている。この作品は、昭和27年に、海老蔵の祖父に当たる九世市川海老蔵(後の十一世市川團十郎)のために書かれたものだ。無法、放埓で知られた青年時代の織田信長の行動や思想を温かく肯定的な視線で捉えたものだ。海老蔵の父・十二世團十郎もこの役を演じており、祖父以来の当たり役と考えてもよいが、それが戦後の作品、というのが面白い。 続きを読む

「放浪記」 2015.10.15 シアタークリエ

 森光子が、その女優人生を賭けて2017回にわたって演じた『放浪記』が、6年の歳月を経て、メンバーを一新し、北村文典の新しい演出でよみがえった。観客の中には、森光子の舞台がまだ鮮やかな人も多いだろうが、没後もこうして作品が受け継がれ、新しい生命を吹き込まれることを考えれば、日本の演劇の財産が残ったことになる。演出にも相当細かな検証の後が散見され、まず、全体のテンポが速くなった。以前の上演の折と比較をすると、休憩時間の短縮もあるが、全体で25分短くなり、3時間20分の上演時間である。細かな台詞をカットし、舞台転換の間に見せるスライドや文章も変わっている。人物の動きを大きくし、今までは動かずに芝居をしていた役に動きを与えるなど、全体的に躍動感のある舞台だ。

 今回は、仲間由紀恵が林芙美子に挑戦。まだ、森光子の印象が強い中で、あえてこの役に挑戦する気概はたいしたもので、初演の割には良い出来だと言える。大詰の晩年の演技が年齢相応に老けられるか、と幕が開く前には危惧したが、そこも彼女の芝居で乗り切った。ともすれば、森光子が遺した大いなる遺産の芝居に引っ張られそうになる中で、懸命に「自分の林芙美子」を創ろうとする姿、好演である。林芙美子の強烈なまでの上昇志向と余りにも苛酷な人生が随所で感じられ、生々しい女性の姿が前面に出た。

今回の演出は、林芙美子という一人の女性の半世紀の側面と同時に、芙美子を囲む人々の人生をも同時に引っ張り出そうとする「群像劇」のような感覚がある。森光子の『放浪記』が苦難を乗り越えて栄光を勝ち取るまでの女性の半生記だとすれば、今回の『放浪記』は、大正末期から昭和にかけて、自分の可能性を信じて文学の世界で生きようとした若者たちの、辛く哀しい青春群像劇、と見ることもできる。作品の新しい解釈の一つであろう。
そのためか、芙美子のライバルである日夏京子(若村麻由美)、詩人の仲間の白坂五郎(羽場裕一)、アパートの住人で芙美子に好意を寄せる安岡(村田雄浩)、芙美子と一時結婚する詩人の福地貢(窪塚俊介)らが、芙美子の引き立て役に回るのではなく、程度の差はあれ苦悩を抱え、理想と現実のはざまに生きる人間としての実在感が増した。全員が初めて、という緊張感が巧く働いた部分もあるのだろう。

お金持ちのボンボンで、おっとりした雰囲気の白坂を演じる羽場裕一が良い。時折、以前演じた『マイ・フェア・レディ』のピッカリング大佐のような感覚がふと出て来るが、鷹揚とした感覚がはまり役だ。次いで、結核を病んでいる詩人の福地を演じている窪塚俊介も好演だ。ピリピリした病人の、狡猾さと嫉みがよく出ている。柄が役のイメージに似合っており、男の陰影が出た。以前は山本學が演じていた安岡が村田雄浩。最近、硬軟さまざまに役柄を広げているが、山本學とは違い、善意だけが前面に出ていないところにかえって人間臭さが感じられる。ライバルの日夏の若村麻由美、この役は、以前は奈良岡朋子が最も数多く演じ、池内淳子、黒柳徹子などが演じて来たが、そうした人ほどの強烈な個性はないのが残念だ。

 仲間由紀恵が、この作品を森光子のように舞台のライフワークとすることができるかどうかは、今後の問題だろう。東京公演を終えた後、名古屋・大阪・福岡と、来年の1月末までこの芝居が続く。その過程でだんだんに練り上げられてゆくだろうが、少なくも、今後の再演を見据えた「覚悟」が見て取れた。この作品が、再演されるかどうか、は観客の評価次第だ。そこに仲間由紀恵の覚悟の結果が出るだろう。しかし、私はより練り上げての再演を観たい、と思う。

「ラ・マンチャの男」2015.10.07 帝国劇場

 幕切れに、20段以上はあろうかという鉄の階段を、いささか背を丸め気味にしながらも、しっかりとした足取りで登ってゆく無言の松本幸四郎の姿に、「孤高」という言葉を想った。私は、この言葉は無闇やたらに使わないようにしている。しかし、すべてが終わった後も、なお遍歴の旅に向かおうとする決意をその背中に感じ、「孤高」とはこういう場合にこそ使うべきだと、久しぶりにこの言葉を頭の中から引っ張り出したのだ。

 何度観ても、入れ子のような多重構造になったこの作品は難しいものだ、と率直に思う。しかし、それは1200回を超えてなお演じている幸四郎も、回りの役者も同様の感覚だろう。回を重ねれば重ねるほどに、今までには見えて来なかった新たな発見があるのが芝居の怖さであり、面白さでもある。1969年に同じ帝国劇場でこの芝居を初演して以来、実に46年にわたって、遍歴の騎士、ドン・キホーテを演じ続けている幸四郎の胸の中には、芝居の荒野をひたすらに歩む遍歴の騎士がいるのだ。そんな事を感じさせる舞台だ。

 舞台は牢獄から始まる。教会を侮辱した罪で、セルバンテスが投獄されてくる。新入りを手荒く歓迎しようと、牢名主(上條恒彦)が「裁判をやろう」と言い出し、セルバンテスは「即興劇」の形で自らの申し開きをする。セルバンテスが創り出した田舎の郷士、アロンソ・キハーナ。この男は朝から晩まで本を読み続けた挙句、精神に変調を来し、何世紀も前の遍歴の騎士、ドン・キホーテとなって従僕のサンチョ(駒田一)を伴に連れ、遍歴の旅に出る…。幸四郎は、セルバンテスと、彼が産み出したアロンソ・キハーナ、そしてキハーナの頭の中にいるドン・キホーテの三人を一人で演じることになる。この三人は、同一人物でありながら別人でもあるのだ。周りの人物も、その時の場面の主人公により、演じる役が変わる。

 3年前の夏に演じた時との最も大きな違いは「年輪」だろうか。それは、「老いた」とか「枯れた」というものとは全く質が異なるものだ。3年の時間の間に、松本幸四郎という役者が重ねた歳月の年輪が、人物により深みを増し、香気をもたらした、ということだ。朗々と歌い上げる『見果てぬ夢』に込められたメッセージは相変わらず力強く、観客に大いなる共感を与える。人生は夢を追い続けるためにある。それが、どんなに遠く、難しいものであろうとも。確かに、一度限りの人生、自分の夢に生涯を賭けなくては、と思うと同時に、そのための「覚悟」がいかに重要なものであるかを、幸四郎は自らの役者としての軌跡で語っているようにも思う。

また、有名な「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ」という台詞は、何度聞いても胸を刺す。しかし、幸四郎のこのエネルギーの凄まじさはどうだろうか。2時間15分というもの、ほぼ出ずっぱりで多くの動きを軽やかに見せる芝居は、精神的な面でも肉体的な面でも苛酷だ。それを一画も揺るがせにすることなく演じる姿に、観客は共感し、感動を覚えるのだろう。

 1977年の公演から、1,000回近く牢名主を演じている上條恒彦の厚みに加えて風格のある芝居、歌声は見事なものだ。2009年から従僕のサンチョを演じている駒田一の安定感が増し、ドン・キホーテに対する想いが深まった。今回はヒロインのアルドンサに宝塚歌劇団出身の霧矢大夢を初めて迎えたが、この女性が持っている「肉感」が描き切れなかったのが惜しい。

 久しぶりに「強制」ではなく、劇場を立ち去りがたい想いの観客たちが続けるカーテンコールに出会った。

「少女仮面」 2015.10.06 ザ・スズナリ

「アングラの女王」の異名を持つ李麗仙が、唐十郎の代表作の一つ、『少女仮面』を演じている。もはや、「アングラ」という言葉が死語となった演劇界において、金守珍が、自らの演出・出演で、主役の春日野八千代に李麗仙を迎えての上演だ。昭和44年の初演以来、何回かこの役を演じている李麗仙が、70歳を過ぎてなお、伝説の舞台への挑戦だ。

「宝塚歌劇団の至宝」と呼ばれ、最年長の女優でもあった大スター・春日野八千代(1915~2012)。戦前からの活躍は目覚ましく、「永遠の二枚目」とも評された実在の女優を主人公にし、地下にある喫茶店を舞台に、唐十郎独特の舞台観が表現されてゆく。戦時中に満洲で病を得た時に出会った甘粕大尉とのエピソード、春日野八千代に憧れる少女・緑丘貝(松山愛佳)とその祖母(金守珍)とのやり取り。「Nikutai」と名付けられた喫茶店の中で起きる出来事は、いとも簡単に時空を飛び越え、空間さえも飛び越える。衰えゆく美貌を恐れ、「永遠の処女性」を求める春日野は、その肉体をも否定される…。

こうした芝居の粗筋を説明することはほとんど意味がない。いくら言葉を費やしても、他の芝居のように説明はできず、空疎になるだけだ。むしろ、一観客として、幕が開いた瞬間に唐十郎が創り出し、金守珍が具現化しようとした世界に飛び込んでゆくしかない。150人も入れば満員の下北沢の小劇場に、全身を白いスーツで包んだ李麗仙が現われた瞬間、その空間が魔法にかけられたように観客ともども時空を飛び越えたのを感じた。『嵐が丘』の台詞を言い、緑丘貝に語る李麗仙は、演じる春日野八千代と李麗仙本人との間を自由に行き来しているように見える。この役は、彼女以外には考えることのできないものだ。今、この瞬間に李麗仙の『少女仮面』に出会えたことは、大袈裟ではなく一期一会の幸運としか言いようがないだろう。

緑丘貝を演じる松山愛佳。文学座からの参加だが、自分が持っている芝居の抽斗を全部さらけ出して、李麗仙にぶつかり、好演を見せた。文学座の演技論にはない芝居を要求されるであろうだけに、この舞台が彼女の成長に与える影響は大きいだろう。腹話術師を演じた申大樹も熱演である。

誤解のないように書いておくと、小劇場の芝居がアンダーグラウンドとイコールで結ばれるわけではない。今は、「アングラ」という略語についても説明が必要だろう。1960年代から70年代にかけて起きた反体制・反商業主義に基づく演劇、とでも言えばいいだろうか。それまでの演劇のあり方に対する反発の姿勢を作家や演出家の世界観と共に強く打ち出したもので、いわゆるストレート・プレイや大劇場での演劇とは明らかに一線を画したものだ。演劇だけではなく、映画や他の文化にもこの動きは広がり、唐十郎や、寺山修司などがその旗手として一世を風靡したが、他の演劇との垣根が時代と共に低くなった。「新宿梁山泊」は、そんな中でもなお「アングラ」の作品を上演し続けている劇団だ。

こうした経緯や現状を踏まえると、今回の公演がいかにタイムリーなものであるかを感じる。60年代とは別の混沌や不安を抱えた今、『少女仮面』がもたらした衝撃は、日本の演劇史において明らかに「伝説」になるであろう。

「黒蜥蜴」 2015.09.08 東京芸術劇場

「黒蜥蜴」
2015.09.08 東京芸術劇場

 江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が脚色した、何とも豪華な戯曲だ。妖美、耽美の世界を描く両巨頭が組んだ作品で、戯曲としての歩みを見ると初演は新派の初代・水谷八重子で1962年のことだ。以後、68年に美輪明宏(当時:丸山明宏)が演じて以来、今回が10回目の上演となる。他に映像化されてもいるが、『黒蜥蜴』と言えば美輪明宏、という構図が完全に定着したのは、1993年に23年ぶりに演じて以来だろうか。それからはほぼ数年おきにこの作品を演じ、私も93年の舞台からは逃さずに観た。プログラムによれば、肉体的な条件や今年が三島生誕90年、没後45年などの節目に当たることから、この舞台で最後にするとのことだ。 続きを読む

『李香蘭』 2015.09.01 自由劇場

 間もなく李香蘭(山口淑子)が亡くなって一周忌を迎え、公演期間中の7日が命日である。今年は戦後70周年の節目でもあり、例年に比べて戦争を扱った芝居が多い。李香蘭という名は時代に残っているが、実際にこの名で彼女が活動したのはわずか7年に過ぎない。以後は、「山口淑子」としてテレビ、その後の政界進出、国際交流と活躍の幅を広げたが、晩年はあまりテレビへ出ることもなく、今の若い世代は山口淑子の名前さえ知らない人々も多いだろう。 続きを読む

BROADWAY MUSICAL LIVE 2015 2015.08.29 新国立劇場

 年に一度の祭典、とも言うべきミュージカルの名曲コンサート。今年で6回目となるが、古今東西の名曲を集めたコンサートはミュージカル・ファンにはたまらないだろう。今年も二幕で約30曲のナンバーが並んだ。「マンマ・ミーア」、「レント」、「ラ・カージュ・オ・フォール」、「レ・ミゼラブル」、「ラ・マンチャの男」、「美女と野獣」、「エリザベート」などなど…。こうしてみると、日本にミュージカルが根付いて来た歴史の一面を見るようでもある。 続きを読む

「南の島に雪が降る」 2015.08.17 三越劇場

 戦後70年を迎えた今年、演劇界でも戦争を題材にした作品の上演が例年よりも多かったように感じる。それが当然の心理だろう。その中でも、この作品は、原作者の俳優・加東大介がニューギニアで実際に体験したことに基づいており、映画化された折にも大ヒットし、映像や舞台でもたびたび上演されて来た。今回はそれを前進座が上演しているが、この劇団が上演することには大きな意味がある。と言うのは、加東大介は当時前進座に属していた俳優であり、召集令状が来た時にも「市川莚司」(いちかわ・えんし)の名で舞台に出ていたからだ。その後、加東は前進座を離れ、テレビや舞台で活躍をした後、昭和50年に64歳の生涯を閉じた。こうしたことどももキチンと書いておかないと、時代の流れの速さの中ですぐに埋もれてしまうのだ。

 さて「南の島に雪が降る」だ。昭和19年、ニューギニアの奥地、マノクワリでは戦況が厳しさを増す中で食糧や燃料の補給路を絶たれ、マラリアや栄養失調などで多くの兵士を喪い、兵士の士気は下がる一方だった。そこで、士気を鼓舞するために、司令官たちが相談の上、マノクワリに演芸分隊を作ることにした。島に配置された兵士の中には、スペイン舞踊のダンサー、ムーラン・ルージュの脚本家、元コロムビアの専属歌手、友禅のデザイナー、長唄の師匠、そして本業の役者と多士済々である。オーディションの後で、演芸分隊が活動をはじめ、各部隊を慰問に回る。もう内地へ帰ることを諦めかけている兵士たちに、分隊は苦労を重ねて女形の着物を拵え、化粧をさせて故国の女性の姿を見せ、大人気を博す。中にはジャングルの奥から片道四日もかけて、芝居を見せてもらえないか、と頼みに来る兵士もいた。

 とうとうマノクワリに「歌舞伎座」ができ、人気作品『瞼の母』の上演が決まった。もう明日をも知れぬほど容態が悪化した東北出身の兵士のために、紙で作った雪を舞台に降らせ、故郷を想い出させようとする悪戦苦闘する人々…。

 この芝居は群集劇とも言うべきもので、誰のこの部分が際立っていた、というよりも、作品の味わいがどうだったかを評価すべきだろう。もちろん、主役の加藤徳之助(加東大介の本名)を演じた嵐芳三郎をはじめ、司令部参謀を演じた藤川矢之輔らの第三世代が安定感のある芝居を見せた功績は大きい。ただ、ともすればあまりにもよくできた美談で終わってしまいかねない内容に、リアリズムを持たせた瀬戸口郁の脚本と、西川信廣の演出は緻密で、評価できる。美談だけではすまない「人間」が描かれていたからだ。もっと言えば、作者の加東大介が本に描いたドラマも、それだけですべてではなかったはずだ。戦地へ取られた人々の中には、戦争当時の事を一切語らずにその生涯を終える人もいる。思い出すのも口にするのも憚られる、あるいは嫌悪するような経験もたくさんしているはずだ。

 また、現代の感覚からすれば、戦争の状況下でわざわざ仮説とは言え300人規模の劇場を建てるよりも他にすることがあっただろう、と通常は感じるだろう。しかし、当時のニューギニアはもう応援の物資も武器も運べる状況ではなく、率直に言えば座して死を待つのみ、という苛酷な状況だったのだ。植物を育てても、収穫までの数か月を持ちこたえることができず、道端の草であろうが木の根であろうが、奪い合いのようにして食べることで生き延びるしかなかった。人が死の瀬戸際に立った時、宗教や祈りと同等に、心に癒しを与えるのが演劇であることは、この戦争の他の国の収容所の例にもある。

 それらをあからさまに見せるのではなく、その痕跡を微かに感じさせることが重要なところだと考える。それが巧くできている脚本だったために、人間の良い面も醜さをも取り混ぜて一つの物語に出来上がったのだ。これから、この作品が前進座の新たな世代のレパートリーに加えられ、次の世代へ伝えるべき事柄を、芝居を通じて残してほしいものだ。

「貴婦人の訪問」 2015.08.14 シアタークリエ

 この夏は海外のミステリアスな作品が流行るようだ。もはや温帯とは言えないこの気候では、国産よりも海外の方がスパイスが効いている、ということだろうか。2013年にウィーンでミュージカル化された同名のストレート・プレイの日本初演である。ドイツの架空の町・ギュレンは、工場の閉鎖などで失業者が溢れ、自治体そのものが倒産の危機に瀕している。他人事とは思えない話だ。そこへ、この町の出身で途方もない財を成して成功を収めたクレア(涼風真世)が一時帰って来る。ギュレンのお偉方は、この財政危機をクレアからの援助で凌ごうと考え、交渉の適任者として選ばれたのはクレアのかつての恋人・アルフレッド(山口祐一郎)だった。ホテルで開かれた歓迎会の席で、クレアはギュレンに対し、たった一つの条件付きで、20億ユーロという膨大な金額の寄付を申し出る。その条件とは、かつての恋人・アルフレッドの「死」だった…。

 何とも突拍子もない展開だが、ミュージカル化される前の元の戯曲の骨格がしっかりとしており、人物が丁寧に描かれているだけに、観ていて違和感はない。むしろ、日本円にして2,000億円以上の対価を払って一人の人間を殺す、その復讐の理由は何か、ということに興味が湧く。昔の恋人に会って、ほのかな嬉しさを感じていたアルフレッドは、町で雑貨屋を経営し、真面目で誠実な人柄で評判も悪くなく、妻のマチルデ(春野寿美礼)や二人の子供と貧しいながらも幸せな家庭を築いていたのが、一転して地獄に突き落とされることになる。

 かつての恋人とは言え、もう何十年も前の青春の想い出であり、自分の命と引き換えにされるほどの恨みを買っていたとは思えないアルフレッド。クレアの有り難いとは言え、余りにも非常識な提案に、自治体を預かる者として頑強に否定をする市長のマティアス(今井清隆)や校長のクラウス(石川禅)、警察署長のゲルハルト(今拓哉)、牧師のヨハネス(中山昇)らの有識者たち。

 しかし、時が経つに連れて、多くの情報が判って来る。アルフレッドがクレアと別れた時には、子供がお腹におりアルフレッドのせいで流産をしたこと、町の工場が閉鎖されたのは、クレアが工場を買い取り、閉鎖に追い込んだこと。そして、銀行は貸付を再開し、人々はクレジットで物を買うことを始める。今までの抑圧から解放された市民の生活はいきなり派手になり、アルフレッドの息子まで車を乗り回す始末だ。そうなると、『人道的見地』からクレアの非常識な要求を拒否していた人々の考えが変わり始める。元はと言えば、町が潰れそうになったのは、アルフレッドがクレアに酷い仕打ちをしたことが原因で、その原因さえ解決されれば、町は発展するのだ、と…。アルフレッドが有罪なのか無罪なのか、過去の事件に対して、住民による審判がくだされる。その結果は…。

 山口祐一郎、涼風真世、春野寿美礼の三人に加え、脇を固める今井清隆、今拓哉、石川禅など、いずれもミュージカルには定評がある人々だけに、舞台には抜群の安心感がある。もう一つ、一々名前を挙げることはしないが、アンサンブルが見事なまとまりを見せている。大掛かりなミュージカルも悪くはないが、手練れを集めてしっかり創った芝居の面白さが味わえる作品だ。ストーリー展開のテンポも良く、涼風真世のクレアが、不気味な味を見せ、今までに演じて来た役柄にはない魅力を見せた事は大きい。山口祐一郎の安定感もいつも通りで、やはりこの二人に追う部分は大きい。

 シアタークリエは短期間でさまざまなジャンルの作品に挑戦しているが、久しぶりに再演に値する作品に出会ったような気がする。酷暑の中を出かけた甲斐があったと言うものだ。

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