演劇批評

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『勧進帳』 2014.11.01 歌舞伎座 夜の部

「勧進帳」
2014.11.01 歌舞伎座

 今年の歌舞伎座の顔見世は、「初世松本白鸚三十三回忌追善」と銘打って、子息の幸四郎、吉右衛門、孫の染五郎を中心に、菊五郎、魁春、芝雀らが顔を揃える。昼夜共に故人のゆかりの演目が並ぶが、注目は、『勧進帳』の弁慶を初役で染五郎が演じることだろう。曾祖父の七世幸四郎以来、代々で3000回以上演じている「家の藝」とも言うべき『勧進帳』の弁慶を、1100回演じている父・幸四郎の富樫、叔父・吉右衛門の義経を向こうに回して演じるプレッシャーはいかばかりであろう。

 私は、最近はスケジュールの問題で歌舞伎座の初日に出かけることはほとんどないが、今回はしばらくぶりで初日を観た。『鈴ヶ森』が終わり、『勧進帳』の幕が開くまでの歌舞伎座の異様、とも言える空気は初めて体験したものだ。観客の期待、高揚、そして緊張。幕が開いた瞬間のどよめくような拍手。まだ、舞台には登場人物が誰一人として登場していないのに、だ。

 幸四郎の富樫が名乗りを上げた後、吉右衛門の義経一行が花道から登場し、最後に染五郎の弁慶が出る。立派な押し出しだ。言葉にはできないほどの緊張感を跳ね返すような目付きの鋭さ。しかし、スポットライトの反射か、うっすら涙が浮かんでいるようにも見えた。吉右衛門の義経は、昭和52年9月の歌舞伎座で、当時の市川海老蔵(十二世團十郎)、中村吉右衛門、初世尾上辰之助が『勧進帳』の三役を週替わりで演じた舞台を観て以来、実に37年ぶりの再会だ。『一條大蔵譚』などは別にして、あまりこういう白塗りの系統の役は演じない役者だが、あえて表情を作らないところに、御大将である義経の風格が漂っている。幕が開く前は「仁ではない」とも思ったが、いい義経だ。

 幸四郎の富樫は團十郎の弁慶と共に演じたものを最近観ているので、違和感はない。むしろ、1100回以上『勧進帳』の舞台に立っている余裕が感じられるが、芝居が進むにつれて染五郎の力に引き込まれてゆく。この親子のやり取りを、染五郎の子息・金太郎が太刀持ちで見守っている。私は、この舞台は上方狂言の『吉田屋』の「紙衣譲り」のように、親が自分の持ち役を子供に渡す意味をも持つのかと思って観ていたが、幸四郎はまだまだ弁慶を、充分な力を持って演じることができる。決して「譲る」わけではなく、追善の機会に、自分の胸を我が子に貸している感じだ。

さて、染五郎の弁慶である。ところどころ、力み過ぎていると感じた場面はあったが、低く太い声で役柄の重さを見せ、富樫との問答も拮抗した緊迫感で見せる。うまく関所を潜り抜け、富樫に振る舞われた酒に酔い、踊る場面でもう少し愛嬌が出ればもっと良い弁慶になっただろうが、初役としては充分な合格点と言えるだろう。祖父のよい追善演目になったと同時に、今後、染五郎の弁慶、幸四郎の弁慶との競演、という楽しみも見えて来た。

 ここで特筆すべきことがある。弁慶は、立役を演じる役者にとっては憧れの大役の一つであることは間違いない。しかし、染五郎は、こうした物の他に、『鏡獅子』のような女形舞踊も踊れる、ということだ。勇壮で重厚な『勧進帳』の弁慶と、美しい小姓でたおやかな娘ぶりを見せる『鏡獅子』の両極端を演じることができる役者が生まれた、ということは注目してよい。「やれる」ことと「できる」ことの意味は違う。今までにこの二役を演じた役者がいないわけではないが、どちらにも及第点、という役者は、私は少なくとも見ていない。

 幕切れの飛び六法で引っ込む染五郎の弁慶の眼に映っていたものは何だったのだろうか。

「夫が多すぎて」  2014.10.30 シアタークリエ

「夫が多すぎて」
2014.10.30 シアタークリエ

 英国の偉大な小説家で劇作家でもあるサマセット・モームの代表的な戯曲である。ウエルメイド・プレイとも言うべきコメディで、1919年にロンドンで初演された作品だ。今から約100年前、第一次世界大戦が終わった後の時代をコメディにしたもので、質の高い作品であることは間違いないが、やはり随所に古さが感じられる。今回の上演では、演出の板垣恭一が上演台本を新たに作り直し、時代感による古さをなるべく感じさせないようにしたこと、また、役者の個性に合わせて現代に近づけたことが大きな特徴だろう。

 第一次世界大戦が終わって間もないロンドンで、魅力的な女性・ヴィクトリア(大地真央)は、夫が戦死したため、夫の親友だったフレデリック(石田純一)と結婚をし、新たな生活を送っている。そこへ、戦死したはずの最初の夫・ウイリアム(中村梅雀)が突然帰って来た。ヴィクトリアは、一体どちらの妻なのだろうか。夫二人が混乱を来している最中に、戦争で大金を手にした大金持ちのレスター(徳井優)がプロポーズを…。

 確かに、イギリス好みの品の良いコメディだ。大地真央が、とんでもなくわがままで、実は夫に迷惑がられている女性を、嫌味がないように演じている。ただ、台詞の調子が時として『マイ・フェア・レディ』のイライザを感じさせる場面がある。イライザは「偽上流階級」であり、ヴィクトリアは生まれ付いての上流階級である。そこの差がくっきりとすれば、もっと良い役に仕上がっていただろう。
 石田純一は、随所に人柄を感じさせる直球の芝居だ。それに対して、中村梅雀が自由自在に変化球の芝居で勝負をし、この二人の夫は良いコンビになった。石田の名言、「不倫は文化である」を台詞に取りいれても、人柄だろうか、あざとくも嫌味にも聞こえない。舞台巧者とは言えないが、得な人柄だ。中村梅雀は、芝居の巧さは定評があるものの、ほんのわずか現代的な部分が足りないように思う。それは、芝居の中でごくたまに台詞が歌舞伎めくこととの関係もあるのだろう。
 ヴィクトリアの母親・シャトルワース夫人が水野久美。デビューが1957年と言うから、芸歴57年の大ベテランだ。こういう役者が一枚噛んでいるだけで、安心感がある。

 日本でもこうして繰り返し上演される洒落たコメディがほしいところだが、なかなか根付かないでいるのは残念だ。日本の演劇の歴史の中で、喜劇が軽んじられていた時代があったせいだろうか。また、最近は「お笑い」と「コメディ」の区別が付かない状況でもある。コメディは、緻密な計算を重ねて産みだす「すれ違い」が根本にあり、その場限りで観客を笑わせればよい、というものではない。それだけに、一本の良質な作品に仕上げるのに時間がかかる。そこを待てない、という状況もあるのだろうが、日本でもこうした作品が今後、どんどん生まれてほしいものだ。

 カーテンコールの後、大地真央が出演者と共に、観客サービスだろうか、一曲歌う。あえて言うが、これはぶち壊しだ。ミュージカルで名を成した大地に期待するところはあるだろう。しかし、コメディの幕が降りた後、芝居の余韻を味わう時間がないのだ。カーテンコールが終わり、客席が明るくなったところで、今の芝居の場面を想い出しながら家路に着く。この余韻も含めてが芝居である。

「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)2014.10.04 国立劇場

「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)

 「角力場」と「引窓」はよく上演される人気演目だが、それ以外の場面はなかなか観る機会がない。しかし、今回のように普段は上演されない場面を「通し狂言」のような形で上演すると、今までの上演方法でははっきりしなかった人物や事件の関係がより鮮明になることがある。その一方で、長い演目の場合は、どこに力点を置いて見せるかが問われることになる。その点で言えば、今回は濡髪長五郎を中心に据え、回りの人間関係をくっきり描く脚本の補綴の仕方が、分かりやすくなった成功例だと言えよう。

 江戸時代の庶民の人気の的だった「相撲取り」を主人公に据えた芝居は他にも何本かあるが、やはりこの「双蝶々」が一番の人気作品だろう。プロの相撲取りの濡髪長五郎と、それに挑む放駒長吉とが肉薄する「角力場」、濡髪が犯した殺人事件を、継母に対する義理で見なかったことにし、逃がそうとする「引窓」を中心に、この二つの名場面が浮き立つような構成になった。濡髪を松本幸四郎、放駒長吉、若旦那の山崎与五郎、南与兵衛の三役を市川染五郎が三役早替わりで見せる親子競演だ。それに加えて、中村芝雀、市川高麗蔵、中村魁春、中村東蔵らのメンバーである。

 幸四郎の濡髪は、関取らしい貫録が充分で、「角力場」ではその容姿だけではなく、迫力が良い。芝居が「引窓」まで進むと、母親の前で自らの罪に苦悩し、逃げようか自首しようかと悩む、身体は大きさとは裏腹に心の繊細な葛藤を見せる。科白の緩急のツボが巧くはまり、グイグイと観客を引き込む力がある。一方、染五郎は三役早替わりと大奮闘で、珍しい序幕の「新清水」で宙乗りまで見せるサービスぶりだが、「角力場」で見せる若旦那の与五郎が良い。俗に「つっころばし」と呼ばれる、突かれたらすぐに転びそうな「金と力のない色男」ぶりに工夫がある。細かな点を言えば、常に親指を隠している手の動きに若旦那の柔らかな色気が見える。こうした工夫が、役者を育てるのだろう。「引窓」の南与兵衛も、持ち前の科白の良さが活きて、分別も出て来て、情がこもっているのは良いことだ。

 この「引窓」は、実子でありながら罪を犯した濡髪長五郎と、継子ではあるが夫の後を継ぎ、村の代官となった南与兵衛の間に挟まり、苦悩する母親・お幸の悲劇でもある。最近、こうした老婆を演じる役者が少なくなり、東蔵が一手に引き受けている感がある。それ自体は悪くないのだが、バタバタと派手に動き過ぎ、苦悩のありったけを動きと科白で説明的に見せてしまう。余りに大車輪で芝居をするので、内心の葛藤や出来の悪い実子と出来の良い継子に対する義理のせめぎ合いなど、辛い老母の悩みが伝わって来ない。ここは、やたらに元気な老婆ではなく、心の中での苦悩が爆発し、理性が感情に負けた点で観客の共感を得るべきで、最初からああ騒いでしまっては、こちらが共鳴している暇がない。ベテランなのだから、もう少し芝居の緩急で見せる工夫がほしかった。元は遊女でありながら、その頃からの馴染みで今は晴れて与兵衛の女房になった芝雀のお早がいつまでも若々しく、一軒の家で起きる悲劇に花を添えている。

 歌舞伎が賑やかな力を持っている今、過去の名作をどう見せるか、というのは今後の大きな課題である。その中の一つの方法が「通し狂言」で、国立劇場はそれを目的に多くの作品を上演し、名舞台も残して来た。今後、これからの観客を見据えつつ、過去の舞台を参考に、「古い革袋に新しい酒を」注ぎ込むのも、大きな宿題だろう。

「イット・ランズ・イン・ザ・ファミリー~パパと呼ばないで~」

 イギリスを代表する劇作家、レイ・クーニーのコメディの中でも、「鉄板」と言ってよいほどの出来の良い芝居だ。1994年に加藤健一事務所が初演し、その後も何度か上演されて来たが、今回はパルコ劇場で錦織一清、酒井敏也、はしのえみ、瀬戸カトリーヌ、竹内郁子、綾田俊樹らのメンバーでの上演となった。演出は山田和也。

 舞台はロンドンのある病院。権威ある記念講演でのスピーチを一時間後に控え、緊張といら立ちを隠せないでいるエリート医師・デーヴィッドの元へ、18年ぶりに以前同じ病院に勤めていて愛人だったジェーンが訪ねて来る。何と、二人の間にはその当時産まれた18歳の息子がいると言う…。この講演で成功を手に入れ、さらに上を目指しているデーヴィッドは、突然訪れたこのハプニングを何とか収束しようと、同僚の医師・ヒューバートに頼むものの、事態はそれだけでは収まらずに、混乱の極みを深めてゆく…。日本風に言えば、「ドタバタ喜劇」であり、多くの登場人物が慌ただしく舞台を出入りし、駆け回り、速射砲のように科白をしゃべる。芝居はどれもそうだが、特にこうしたコメディは「間」が命で、一瞬ずれただけで笑いは白けたものになる代わりに、見事な間合いで芝居が続いて行けば、この上なく面白いものだ。レイ・クーニーの脚本は緻密な計算の上に成り立っており、約2時間観客を笑わせ続けた挙句に、見事な結末を用意している。こうした芝居を観ると、「脚本」がいかに大事なものであるか、改めて認識せざるを得ない。同時に、こうして繰り返され上演される上質なコメディが、なかなか日本では生まれにくい状況が寂しくもある。

 錦織一清のデーヴィッド。膨大な科白を喋りながら舞台を出入りし、果ては変装までと大忙しである。初日が開いて間もないせいか、科白に追われている感が若干あり、「間」に緩急のメリハリをつけ、もっとこなれたら更に面白いものになるだろう。次から次へとその場限りの嘘を付き、やがて自分が言った言葉に振り回されてゆく過程を、真面目に演じているのは良いことだ。コメディで自分がふざけてしまう舞台が時折あるが、役者が先に楽しんでしまっては、観客は楽しめない。エリートぶりも鼻に付く寸前で止めているのがいい。いいように押し付けられてしまう酒井敏也のヒューバートが秀逸だ。二人が凸凹コンビのように見えるのがこの芝居で活きている証拠で、最後に酒井が一瞬で芝居をさらう場面もあり、大健闘。息子のレズリーを演じる塚田僚一は、いっぱいいっぱいの挑戦といったところか。愛人・ジェーンのはしのえみ、もう少し「過去」の雰囲気を漂わせても良かったかもしれない。瀬戸カトリーヌが演じるデーヴィッドの妻・砕け過ぎにならず、この芝居で求められている役割をきちんと演じている。いわば、「点景」としての存在がくっきりした。

 客席は良く笑っている。良質なコメディは、幸福でもある。テレビの「お笑い」が下品なものばかりだとは言わないが、計算に計算を重ね、一瞬の間合いを稽古した果ての笑いと、その場で思いつくような笑いの質が違うことはおのずと明らかだろう。どちらを好むかは観る側の問題だが、こうした良質の笑いを楽しむことこそ、「大人の娯楽」ではないだろうか。ぜひ、カップルで観てほしい芝居だ。

「美輪明宏 ロマンティック音楽会 2014」 2014.09.18 東京芸術劇場

「美輪明宏 ロマンティック音楽会 2014」

2014.09.18 東京芸術劇場

 毎年秋の恒例となっているこのリサイタル、もう25年ほど聞き続けていることになるか。例年、一部はオリジナルでまとめたり、日本の叙情歌を歌ったりの構成でまとめ、二部はシャンソン、という形式で固定している。今年は一部は「おぼろ月夜」「惜別の唄」「ゴンドラの唄」などの古き良き時代の叙情歌に「金色の星」「ヨイトマケの唄」などの自作の曲が並んだ。二部は「港町のレストラン」というダミアの久しぶりに聞く曲を皮切りに、「人生は過ぎ行く」「ラストダンスは私と」、そして「愛の讃歌」。例年との大きな違いは、二部のシャンソン・コーナーに「日替わりの一曲」のコーナーを設けたこと、最後の「愛の讃歌」を十数年ぶりに日本語訳の歌詞でステージで歌ったことだ。私が観た日の日替わりは「ヴォン・ヴォアヤージュ」。「愛の讃歌」を日本語で歌ったのは、間もなく最終回を迎えるNHKの朝の連続テレビ小説『花子とアン』の語りを担当しており、先日、このドラマのラストシーンで流した日本語版の「愛の讃歌」が大きな反響を呼んだためだろう。

 「愛の讃歌」について言えば、私が美輪明宏のシャンソンを聴いて来た30数年の中では、最初の頃は自らがピアフの原曲をそのままに近く訳した日本語で歌い、しばらく経ってからは、歌う前に日本語で意味を説明し、フランス語で歌う、というスタイルを続けていた。今年からは、また昔のパターンに戻ったことになるが、両者の意味は違う。美輪がこだわり続けた歌詞は、越路吹雪が歌って大ヒットし、一時代の結婚式ソングとなった岩谷時子の訳詞が、ピアフの激烈なまでの愛情を伝えていないものだ、という意見からだった。ステージで訳者の岩谷時子を名指しで批判するような非礼な真似をする人ではなく、確かにその気持ちは分からないではない。しかし、今から半世紀前に、越路吹雪がこの曲を日本語で歌った時の聴衆の感覚を考えれば、口どけの甘い優しい歌詞にくるまれた愛の唄の方が受け入れられやすかった、という事情も一方にはある。どちらが良い悪いの問題ではなく、外国の曲であれば、いろいろな翻訳があって当然のことだ。私が言いたいのは、まさに「歌は世につれ」ということで、受け取る人々が時代と共に変われば、その感覚や感性も変わるのだ、ということだ。しかし、何がどうなろうとも、「愛の讃歌」が不朽の名曲であるという事実だけは微動だにしない。これが歌の素晴らしいところだ。

 日本にシャンソンが入って来てから、間もなく90年になろうとしている。その間に、多くの歌手がいろいろな曲を歌い、「愛の讃歌」のように大ヒットを放ったものもあり、力のあるシャンソン歌手もずいぶん出たが、大変残念なことに、その水脈は徐々に細っているように思える。「陰気くさい」「フランスの演歌だ」「キザったらしい」と、その多くが食わず嫌いとしか思えない意見で一蹴されてしまうことは、本当にもったいないことだ。そうした風潮の中、際立った個性を含めて、孤軍奮闘とも言える形でここまで若い観客を集める美輪明宏のパワーは凄く、もはや神格化されている部分もある。まだ日本が今ほどに鷹揚ではなかった時代に、突出した個性ゆえに排除されながらも何度も立ち上がり、一つの道を切り拓いた功績は大きいだろう。

 私が高校生の時に、テレビのモーニングショーで紹介された自作の「老女優は去りゆく」という曲は、日本のシャンソンの名曲だと私は想う。語りを含めて約7分の長い曲は当時のシングル盤のレコードの片面には収まらず、LP盤へ収録された。そんなことどもを考えながら、この人が歩いて来た茨の道を想う時、我々日本人が忘れてはならない感情をも同時に思い出す。そんなリサイタルである。

死神

 落語に『死神』という噺がある。三遊亭圓朝が海外の話を落語化したものだと言うが、今でも高座に掛ける噺家が多い人気の噺だ。それを、現代にアレンジし、さらに和風のミュージカルに仕立てたのが今回の作品だ。
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八月の鯨

昨年12月に三越劇場で上演された劇団民藝の『八月の鯨』が、今年、地方巡演に出ている。5月に川崎市からスタートし、大阪、京都、神戸、奈良、などの京阪神、旭川、釧路、江別、苫小牧、函館などの北海道の旅を終え、四日市や伊勢、多治見などの中部・東海の旅に入った一日、名古屋から30分ほどの愛知県・江南市での公演を訪れた。
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PLAYZONE1986…2014★ありがとう!青山劇場★

来年閉館が予定されている青山劇場で、1986年以来29年間にわたって続いてきた恒例の「PLAYZONE」の最終公演である。少年隊の三人が真夏のファンへのプレゼントとして続け、2008年に『Change』と銘打って、次の世代にバトンを渡した。あの年は例年にもました凄まじいほどの熱気で、千秋楽は特別カーテンコールが終わらずに、終演後1時間10分にわたって少年隊が熱いファンの声援に応えていたと、手元の観劇メモに残っている。
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白い夜の宴

劇団民藝の、昨年の『夏・南方のローマンス』に続く木下順二作品である。1960年代の半ばに近い夏の夜に、応接間で年に一度家族三世代が揃って開かれる「宴」。祖父は昭和天皇と共に、戦争の後始末に尽力した元・内務官僚。父は、かつては左翼思想を持ち、投獄された経験もあるが「転向」した後に、自動車産業を成功させ、今や大企業の社長である。息子は父の会社で働いている。この三世代の男たちを中心に、それぞれの連れ合いや恋人、友人などが一夜の「宴」の中で語り、明らかになる問題とは…。出演者が圧倒的に多い男の芝居を、『夏・南方のローマンス』に続いて丹野郁弓が演出している。
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昔の日々

20年ほど前、東京・森下にあった小劇場「ベニサン・ピット」でデヴィッド・ルヴォーの演出作品をよく観た。あの頃はルヴォー・ブームと言ってもよいほどで、多くの演劇人がこの演出家の才能を高く評価した。小劇場の濃密な空間の中での人間模様を、時には息詰まるほどの苦しさ、緻密さで描いたルヴォーの演出は、新鮮な感覚を持って歓迎された。今回上演されている「昔の日々」は、現代のイギリスを代表する劇作家、ハロルド・ピンターが生前、演出をルヴォーに託していた作品だと言う。住宅の一室の中で巻き起こる濃密な人間関係の背後にあるものを、ルヴォーの手によって炙り出してほしかったのだろうか。
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