この秋に、大竹しのぶが渋谷のシアターコクーンで上演することが決まっている。アーサー・ミラーと並ぶ現代アメリカ演劇の劇作家、テネシー・ウィリアムズの代表作の一つだ。1947年にアメリカで初演され、日本では7年後の1952年に文学座が初演をし、以来、主役のブランチは、杉村春子の代表作の一つとなって晩年まで回を重ねた。杉村の存命中は、青年座の東恵美子、新派の水谷良重(現・二代目水谷八重子)、俳優座の栗原小巻が演じたくらいで、ほとんど杉村の専売特許の感があったが、杉村没後は樋口可南子、大竹しのぶ、高畑淳子、珍しいところでは女形の篠井英介が黒のセーターとパンツで、衣裳をつけずに演じたこともある。
作品の冒頭で、ブランチの妹・ステラの夫、スタンレーがボウリングに出かける場面がある。時代を感じるエピソードを一つ紹介しよう。初演当時はこの「ボウリング」の意味がわからなかったそうだ。それで、関係者が辞書を引いたら、「木製の徳利の大きなような棒を10本並べて、離れたところから球を転がして倒す遊び」という説明があり、余計に混乱したそうだ。
今のように情報を簡単には得られない時代、ましてアメリカの占領下からようやく抜け出そうという時期のこの芝居は、日本人の眼にどのように映ったのだろうか。わからないながらも、一生懸命に原作を理解し、表現しようと努めた人々の苦労があってこそ、日本でもこの舞台が評価された。それには、ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドによる同名での映画も大きく貢献していることは間違いがない。
姉妹でありながら、下町で結婚して貧しいながらも楽しく暮らす妹・ステラと、教師をしながら広大な土地を持つ実家を守っていたが、やがてすべてを失い、ステラを頼ってくる姉のブランチ。貴族趣味で回りの人々を幻惑するが、やがてステラの夫・スタンレーにその正体を暴かれてゆく…。
作者のウィリアムズは、主役のブランチを自分自身だと語っている。ウィリアムズのセクシャリティを伴う繊細さは、『ガラスの動物園』などの他の作品にも現われてはいるが、ブランチのプライドの高さと虚飾の関係には、作者本人の姿がより濃く投影されているのだろう。
ブランチの気品と、「物語」に幻惑されたスタンレーのポーカー仲間のミッチが、ブランチに想いを寄せるようになる。しかし、ミッチは残酷な「真実」を知り、ブランチを問い詰める。そのやり取りの中で、ブランチはヒステリックに『真実なんて大嫌い。私が好きなのはね、魔法!』と叫ぶ。(新潮文庫版・小田島雄志訳による)嘘をついているうちに、あたかもそれが真実であるかのように思い込むタイプの性格があるが、ブランチの場合、それは病的でさえあり、砂上の楼閣が崩れ落ちる瞬間はいたましくさえある。
まさにガラス細工でできたかのような女性でありながら、制することのできない「欲望」に身を苛まれ、最後は妹夫婦によって精神病院へと送られることになるブランチ。この、何とも複雑怪奇な性格の女性を演じることは、女優にとって相当の困難であると同時に大きな魅力でもあるのだろう。だからこそ、多くの女優がこの役に憧れ、挑戦を試みているのだ。日本での初演から65年を経た今もなお、こうして舞台に掛けられる作品を一本ならず遺せたことは、劇作家としては本望ではあるまいか。