長いタイトルの芝居だが、一見すると、どういう内容の芝居か分からない。この芝居の作者、トム・ストッパードは、1937年にチェコスロバキアに生まれ、英国へ移住、1964年に15分の寸劇を元にしたものは、今回取り上げる作品だ。
では、この「ローゼンクランツ」と「ギルデンスターン」とは一体、どこの何者なのだろうか。シェイクスピアの『ハムレット』に出て来るハムレットの幼馴染の友人なのだが、幕切れ近くに、その理由を説明されることもなく、あっさりと「死んだ」と片付けられてしまう端役で、「割に合わない」二人なのだ。作者は、この不当な扱いを受けた二人の男を主人公にし、本編の『ハムレット』の主人公であるハムレットを脇役にする、という、オリジナルの裏を行く作品を書いた。それが、この芝居である。
凸凹コンビとも言える二人は、知らぬ間にデンマークからイングランド王に当てた「ハムレットを殺せ」という密書をすり替えられ、自覚のないままに「スパイ」になっているが、自分たちが何をしに来て、何をすべきなのかを理解しないままに劇は進行する。殺されるべきハムレットは脇役ながら、二人が運ぼうとしている密書をすり替え、内容は「ハムレットを殺せ」から「この書状を持参した者を殺せ」となっている…。
現代演劇の中に、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『授業』に代表される「不条理演劇」という作品群があるが、この一作もその中に入れられるべき作品である。作者は他にも『アルカディア』、『コースト・オブ・ユートピア』など、日本でも上演されている作品があるが、中でも最も上演回数が多いものだろう。
この作品が発表された1960年代は、「不条理演劇」が流行した時代でもあった。「不条理演劇」とは何か。この短い文章での定義は難しいが、一言にするなら「理屈の付かないもの」とでも言えば良いだろうか。この芝居で言えば、主人公の二人は自分たちが「どこへ」「何を」しようとしに行くのかを知らないで行動をしている。単純にその不可解ぶりが面白い、というのではなく、その「わからない」ことに意味がある芝居だ。その「意味」を追求することにあまり意味はない、というのが私見だ。追求したところで、元から辻褄が合っていないからだ。
2017年秋、この不可思議な芝居を、世田谷パブリック・シアターで生田斗真と菅田将暉のコンビが絶妙の掛け合いで見せた。どの分野でも役者には「旬」があり、その年代の「花」がある。若手が全力を尽くして名作にぶつかる姿もまた楽しからずや、である。
昨今、「芝居の台詞」になっておらず、日常会話で紡いだけの芝居を観ることがある。そこに格別の意図があればともかくも、芝居の台詞はやはり「台詞のことば」でなくてはならない、と考えている。作者の仕掛けた罠や世界に観客がはまり込み、それは何だったのか、と考えるのも芝居の楽しみだ。現代人は歯応えの良い柔らかい食べ物を好む、と言われるがそれはこと「演劇」に関しても同様だ。「入場料を払ってまで、なぜ難しい想いをしなくてはならないのだ」と言われてしまうとそれまでだが、読書人口が減っていることと、無関係ではないような気がする。これも、芸能が時代と共に変容する宿命の結果の一つだろうか。