コメディの作家として、アメリカのニール・サイモン、イギリスのアラン・エイクボーンと並び称されるほど有名で、かつ人気のある作家だ。1939年の生まれというから、今年79歳を迎えることになる。

 日本でよく上演されるのは『恋の冷凍保存』、『ドアをあけると』、『ばらばら』、1975年に発表された出世作の『ベッドルーム・ファース』辺りだろうか。ここで取り上げる『アーニーの超幻覚症状』は短い一幕の作品で、1969年発表、71年の初演とあり、そういう意味ではエイクボーン初期の作品と言える。

 病院の診察室で、派手な幻覚を観るという少年・アーニーとその両親が、息子の症状を医者に訴えているうちに、幻覚はアーニーだけではなく、その両親や兄弟までをも巻き込んで、「個」から「集団」へと伝染する。むしろ、両親がアーニーの幻覚を膨らませ、よりパワーを増大されている節さえある。その様子を、実はアーニーはどこか醒めた視線で眺めているという、いささかシニカルな要素を含んだコメディだ。

 今までに取り上げて来た戯曲の中で、自分が実際に観ていないものについて取り上げるのは、今回が初めてのことだ。エイクボーンであれば、先に述べたような日本でも人気の秀作がたくさんあるのに、「なぜ?」というところだろう。理由は二つある。一つは、どれほど優れたベテランの作家でも、必ず出発点があり、その時代にどんな事を考えていたのか、を知りたいこと。もう一点は、私個人の好みだが、「一幕劇」に深い興味を持っていることだ。いくつかの例外を除いて、一幕劇はそう長い上演時間ではない。一時間前後の芝居の中で、多くの人々の人間模様や感情を描くことは、簡単なことではない。さまざまな想いが凝縮された一幕劇は面白いものだ。そうした観点から、あえてまだ見ぬエイクボーンの一幕劇を取り上げた次第だ。もう一つ加えれば、この作品が上演の機会がほとんどない、ということもある。

 戯曲は不思議なもので、読んで面白くとも、それを俳優の肉体で三次元化した折には急速にその力を喪ってしまうものがある。また、上演の場合には、思わぬスペースや道具などを必要とし、制作側のそろばんが合わなくなる場合もある。しかし、この『アーニーの超幻覚症状』は、そのどちらでもなさそうだ。むしろ、ここで描かれている作者のシニカルな諷刺を、観客に具体的に伝え、共感や納得を引き出すのが最も難しいのではないか、とも思う。そうした、「歯応えのある作品」が、上演の機会を待ってたくさん眠っているという事実を知らせたくもある。

 どんな作家でもそうだが、書いた作品すべてが上演され、好評を博するわけではない。俗に言う「お蔵入り」の方が多い場合もある。これは戯曲に限らず、小説でも詩でもエッセイでも、多くの作品が作者の筐底に眠っているはずだ。誰だったか、「没原稿が自分の背丈ほどなければ、物書きとしてはやっていけない」と言ったが、その言葉には大いに共感できる。しかし、この作品は決して「お蔵入り」でも何でもない。今から約50年近く前に初演された作品が、それよりも精神的な病が数多く、多彩な症状を見せる現代にあって、どのように捉えられ、どのように見せるのか、という点で演出家や俳優陣は腕を試される芝居でもある。

 こうした芝居を発掘するのも、私のような仕事をする人間の役割の一つなのだ。