昭和の中期に活躍した演劇評論家で小説家でもあった安藤鶴夫(1908~1969)。姓名を略して「あんつる」と呼ばれたり、喜怒哀楽の変化が激しかったために「感動する夫」ともじられたりもして親しまれた一方、対象とする相手の好き嫌いが激しく、それを問題とされることもあった。自身が義太夫の太夫の息子であったことから、義太夫への愛着も深く、三代目竹本大隅太夫(1854~1913)にまつわるエピソードを語り風にしたのがこの『芸阿呆』だ。相方で三味線を勤めていたのが名人と呼ばれた二代目豊澤團平(1828~1898)で、二人の物語を中心に、芸の世界の苛烈な生き方を描いたものだ。
歌舞伎に『吃又』(どもまた)という作品がある。芸術家の奇蹟譚、とも言うべき内容だろうか。その冒頭部分の義太夫に「ここに土佐の末弟」という詞章があり、この最後の「い」の音(義太夫では「オン」と呼ぶ)が発声できていないと、團平に相手にされず、たった一文字のために早朝から夜中まで稽古が進まずにいた話などが、単行本にしてわずか10ページほどの小品ながら、大阪弁での語りで二人のありようが見事に活写されている。こうしたエピソードは明治には殊更珍しいものではなく、下手な太夫だと三味線弾きは一向に手を動かさず、「その語りでは弾けまへんな」と相手を鍛えたという話は多い。
この、まさに二人の「芸阿呆」を描いた舞台は、昭和56(1981)年9月の歌舞伎座で、十七世中村勘三郎と五世中村富十郎の二人によって上演されたのが唯一ではなかろうか。当時すでに名優としての評価が高かった二人の芸狂いが見せる舞台は、派手なものではなく、いささかの陰鬱ささえも潜めてはいたが、面白いものだった。勘三郎が「師匠」としての役を演じたが、自叙伝の名が『やっぱり役者』というほどの芝居好きで、富十郎が演じる「弟子」に対する愛情と苛立ちが繰り返し縄のように出て来る。勘三郎そのままの姿を観ているような部分も感じたものだ。この二人でなくては、という部分も含めて、今後上演されることは恐らくないだろう。理由は簡単で、こうした世界の呼吸に、観客が同調し、共感を得る時代ではなくなった、ということだ。
現代にこんなことをしていたら、「ワーク・ライフ・バランスにそぐわない」だ、「パワハラだ」「効率的ではない」などなどの喧しい声が聞こえて来そうだが、元々芸の世界の住人はそうしたものとは無縁の場所で生きている。規定の時間通りに何もかも終わらせていたのでは一流の舞台も演じ手も生まれるわけはなく、自身が寝る時間を削ってどれほどの研鑽を重ねたかが現われる仕事だ。土台、マニュアル化しようとしても無理な話で、マニュアルにならないところに芸の神髄があるとも言える。昔から「芸は盗め」と言われる所以はここにあるのだ。私が文章を綴る仕事も同様で、こちらは良くも悪くも形が残ってしまうが、舞台は幕が降りた瞬間に泡沫の如くに消え、観客には「感動」が残るだけ、という潔さがいっそ羨ましくもあったりする。
作品の冒頭に「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男の有名な句が引用されている。折しも今年は明治と元号が変わって150年の節目でもある。「明治」どころか、「昭和」さえ遠のき、知らない世代に懐かしがられる時代になった今、演劇の中の「芸」のありようというものをどのようにして伝えるのか、極論を言えば、もう伝える必要はないのか。個人的に、そんなことをしんみりと考えさせられる作品である。