現在までに上演されて来た歌舞伎の中で、群を抜いて上演回数が多いものではないだろうか。古典芸能の場合、作者が特定できないものもある。この『勧進帳』も、原型は元禄年間に初代市川團十郎が演じた『星合十二段』という作品の中に取り入れられた。その後、江戸末期の天保11(1840)年に能の『安宅』を取り入れて七代目市川團十郎が演じた。現在、我々が観ている形に最も近い形式にしたのは、明治時代に活躍した九代目市川團十郎(1838~1903)だ。いずれにしても、市川團十郎家の芸として、連綿と受け継がれて来た。最近はさほど厳しくないようだが、かつては、市川家の許可がなければ、この芝居を演じることができなかった、という時代もある。

 「家」として最も多く演じているのは松本幸四郎家だろう。七代目(1870~1949)が1,600回以上、孫に当たる現在の九代目(1942~)は1,100回以上、と二人合わせて2,700回を超えている。もちろん、他の家でも演じており、その総数は軽く4,000回を超えるだろう。

 この芝居が、なぜそれほどに人気があるのだろうか。一つには、長唄の詞と曲が優れていることだろう。派手でボリュームとテンポのある曲調が支持されたことは、長唄のおさらい会などでよく演奏されることからも良くわかる。しかし、現在の石川県・小松市に設けられていた「安宅の関」を、兄・頼朝に追われて東北へ落ち延びようとする源義経と家来の弁慶一行、それを阻止しようとする関守の富樫左衛門という三人の男が織りなす「武士の情」のドラマにあることは言うまでもない。

 最近使われなくなった「惻隠の情」という、相手の気持ちや立場を慮って行動する男の情けが描かれている。何とか関所を抜けるために、涙をこらえて主人・義経を打つ弁慶。その厚い忠義に打たれ、相手が誰かを知りつつも関を通す富樫。誰も具体的な感情を口にはしないが、心の底で互いの気持ちを忖度し、そこに情けをかけ、感謝をする。先に逃がした義経一行を追い掛け、花道を勇壮な「飛び六方」で引っ込む弁慶の姿を見送る富樫。

 『勧進帳』は歌舞伎の「通し狂言」ではないため、この事件の「その後」は描かれていない。私が興味を抱くのは、富樫左衛門という関守は、源頼朝の命に背いて義経を逃がした。つまりは、自分の命と引き換えにする覚悟で行動を起こした、ということだ。もしもこれに続く場面があれば、史実通りに演じれば頼朝の怒りを買い、職分を取り上げられて出家をする、ということになる。『熊谷陣屋』の主人公・熊谷直実のようだが、この史実にもまだ不明な部分があり、確証はない。ただ、頼朝から厳罰を受けたことは確実だろう。あえてそこまでを見せずに、それ以降の出来事は幕が閉まった瞬間に富樫に委ねられる。こういうところにも、歌舞伎の魅力がある。

歌舞伎は歴史劇の要素を多くふくんでいるものの、歴史を忠実に再現するわけではない。明治時代に「活歴」という、歴史に忠実な演劇を上演するべきだ、という運動が起きたが、そればかりでは芝居にならない。「芝居の嘘」という言葉があるように、観客に心地よいカタルシスを与えることが芝居の役割でもある。そういう点で言えば、『勧進帳』が観客に与える満足感は大きい。誰が演じても、義経一行は落ち延びることができる、という結末は変わらない。しかし、主要な役である弁慶・富樫・義経の組み合わせによって、雰囲気や色合いが変わる。そこが、歌舞伎の楽しみの一つでもあるのだ。