7月に明治座で大地真央が明治座で演じると話題になっている。ただ、「音楽劇」と銘打ってあり、そのままの形での上演ではないようだ。小説家として数多くのヒット作を生み出した有吉佐和子(1931~1984)は、古典芸能に造詣が深かったことから、初期の作品には芸道に題材を得たものが多い。のちに、自作を自らの手で戯曲に脚色したものある。その中の一つがこの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』だ。明治維新を前に、尊皇だ、攘夷だと揺れ動く時代の横浜。そこで起きた、外国人相手の花魁の死を、吉原から流れて来た呑んだくれの芸者・お園が面白おかしく話しているうちに、どんどん話が大きくなり、予想もしなかった事態に発展する…。
この作品は、文学座の杉村春子(1906方1997)のために舞台化されたもので、1970年に小説として発表したものを脚色し、1972年に初演している。杉村扮する芸者が口も八丁、手も八丁の様子で、幕が変わるごとに膨らむ話を語り分ける「語り芸」の要素を含んだ作品だ。台詞に定評のある杉村だからこそ、という想いが作者の中に少なくなかったであろうことは容易に想像が付く。また、ただ面白おかしいだけではなく、幕切れに漂う哀切な感情は、当時の人々が抱いていた、来るべき新時代への不安とも二重写しになる。こうした仕掛けを緻密に書き込む辺りが、文壇で「才女」と呼ばれた所以だろう。
この作品は、のちに歌舞伎の坂東玉三郎、新派の二代目水谷八重子(1939~)など、日本の古典芸能へ移されていったが、その出発点が新劇作品というのは面白い出自である。かつで、藤山直美(1958~)がこの役を演じたことがあり、関西出身の彼女は、「大阪から流れて来た芸者」と役の設定を変え、一人だけ大阪弁でこの役を演じたことがある。これは全くもって役者の我がままで、作品に対する冒瀆でしかない。芝居はまず「脚本ありき」で、役者が読み込み、演出家が脚本に描かれている人物像をどこまで肉体化するか、これはどのジャンルも一緒だ。今度、大地真央が演じる舞台の脚本がどういうものになるのか、まだ舞台を観ていないので、それは分らない。いささかの救いは、有吉の脚本そのままではなく、脚本にさらに手を加える「潤色」の作業がなされることだ。
台詞の調子を張って言うことを、芝居の世界では「台詞をうたう」と呼ぶことがある。この芝居は、その緩急、活け殺しが舞台に大きく物を言い、玉三郎も1988年に名古屋・中日劇場での初演の折は、杉村春子の調子をそのまま写したものだった。尤も、これは批判されるべきことではなく、「最初は真似の踊りなり」というように、歌舞伎でも新しい役を教わった場合には、自分勝手な解釈をせずに、教わった通りに演じるのが相手に対する礼儀ともされている。玉三郎がどこまで杉村春子に教わったかはともかくも、その後、回を重ねて自分なりのお園を創り上げて行った道筋は正しい。
「横浜はここ岩亀楼、攘夷女郎として有名な亀遊さんは、花もつぼみの…」で始まる聞かせどころの台詞の調子には名優・杉村春子も相当な苦労をしたようだ。ある歌舞伎の女形のもとへ赴き、一緒にこの「うたいぜりふ」の工夫をしたというエピソードを聞いて、なるほど、と思ったことがある。良い舞台を創るためには努力を惜しまない、のは当然のことだ。杉村春子の当たり役となったこの役は、彼女が終生憧れと尊敬を抱いていた新派の名女形・花柳章太郎(1894~1965)へのオマージュでもあるような気がしてならない。