歌舞伎には「新歌舞伎」というジャンルがある。明治以降に歌舞伎のために創られた作品を指す。坪内逍遥(1859~1935)、岡本綺堂(1872~1939)、真山青果(1878~1948)長谷川時雨(1879~1941)など、江戸時代の歌舞伎の世界には身を置かず、明治以降に小説家や批評家などの文筆家として身を立てていた人が、歌舞伎に提供した作品、という解釈が最もしっくりくるだろう。今の歌舞伎のレパートリーにも「新歌舞伎」、つまり明治以降の作品がずいぶん含まれている。
この作品、静岡県の温泉地として名高い「修善寺」ある「修禅寺」という寺に棲んでいた夜叉王という面作りを主人公にした芝居である。タイトルの文字が、温泉地と一字違うので間違いやすいが、真相はそういうことだ。時代を源平の合戦の時代に取り、伊豆に幽閉されていた源頼朝の長男・頼家に自分の顔に似せた面を創るように頼まれているが、夜叉王が何度彫っても死相が現われ、思うような仕上がりにならない。夜叉王には桂と楓という二人の娘があるが、姉の桂はプライドが高く、己の才知と美貌で栄華を望んでいる。その想いが叶い、頼家に見初められて側室になったのは良いが、頼家に追手がかかり、助けようと頼家の面を付け、身替りとなって瀕死の状態で我が家へ戻る。その様子を見た夜叉王は、何度面を打っても死相が現われていたのは、自分が頼家の運命を予見していたからだと、娘の命を助けるよりも先に、苦悶の表情を浮かべる娘の姿を面に移そうとするのだった。
この粗筋には、芥川龍之介の『地獄変』にも共通する部分がある。それは、明治以降の新しい思想の中で、芸術家たちが好んで取り入れた「芸術至上主義」がふんだんに描かれていることだ。1911(明治44)年に二世市川左團次(1880~1940)が取り上げたことを考えても、当時の歌舞伎役者の中で進歩的な考えの持ち主に共感を得たのだと言えよう。以降、数多くの役者が手掛け、五世中村富十郎、三代目実川延若、四世市川左團次、九代目松本幸四郎、二代目中村吉右衛門、五代目中村歌六、九代目市川中車などの立役が手掛け、もはやスタンダードな演目である。
主人公の夜叉王以下、対照的な性格の二人の姉妹、伊豆の風景などが良いバランスで描かれ、義太夫を使っていないことからも、歌舞伎の観劇歴の少ない観客にもわかりやすい演目、という事も人気の一つだろう。幕切れ近く、夜叉王が娘の死を尻目に、「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われつたなきにあらず、にぶきにあらず…」と自らの技量に酔う場面は、聞かせどころで、演じている役者にも「気分のいい役」だろう。この作品が持つ不思議さは、特に夜叉王が、いつも中心で芝居をしている役者でも、脇に回ることが多い役者が演じても、科白術が確かであれば成立することだ。歌舞伎の様式に頼らずに、人間を描くことを始めた明治時代の作家の作品だからでもあり、演じる側にしてみれば、ふだん演じている役柄を問わずに、自分の力量で勝負できる芝居であるだけに、難しいとも言える。
歌舞伎以外の芝居でも取り上げられることがたびたびある。印象的なのは、1991年3月に、静岡県・修善寺総合会館、つまりおひざ元で一日だけ公演された舞台だ。新派の巡演だった記憶があるが、その折に夜叉王を演じたのは、ゲストで参加した新国劇の島田正吾(1905~2004)の夜叉王で、86歳といえども意気軒昂な姿を見せ、朗々と科白を謳っていたのを覚えている。初演から100年以上経っても、古びない芝居だ。