劇作家の真山青果(1878~1948)が、歌舞伎の『忠臣蔵』のもとになった「赤穂事件」を、史実を丹念に調べ、全10編にわたってこの事件を描いた連作の歌舞伎、とでも言おうか。1934(昭和9)年に最終編の『大石最後の一日が上演され、1941(昭和16)年に『泉岳寺』が上演されるまで、実に7年をかけた大作である。

 古典歌舞伎のように、義太夫や長唄などの邦楽をほとんど使わずに、「科白劇」で登場人物の感情を深く掘り下げる手法で描かれた緻密な作品で、上演頻度にばらつきはあるものの、現在も新歌舞伎の作品の中では人気のレパートリーになっている演目がある。一番上演頻度が高いのは『御浜御殿綱豊卿』、ついで『大石最後の一日』、『南部坂雪の別れ』辺りではなかろうか。

 赤穂浪士に心を寄せ、討ち入りの「義」は認めつつも、それだけに逸る義士の一人・富森助右衛門を諫める『御浜御殿綱豊卿』、本懐を遂げた大石をはじめとする赤穂義士たちが、切腹を待つ間、大名の屋敷に預けられ、静かに死を待つ日を描いた『大石最後の一日』、本心を隠して、浅野内匠頭の未亡人・遥泉院に別れを告げにゆく『南部坂雪の別れ』。この三作のうち、最後の『南部坂雪の別れ』は江戸時代、歌舞伎ですでに上演されており、その後、講談や浪曲などの周辺芸能にすそ野を広げてゆくことになる。

 最近は我々日本人と「赤穂義士」とのかつてのような濃密な関係は薄れ、感覚的にも距離が出て来たような感覚があるが、この四十七士の「義挙」と呼ばれた行為を、連綿と伝えて来たのが歌舞伎を中心とした芸能である。昭和の初期に、真山青果がこれだけのエネルギーを注いだ作品が、今もなお歌舞伎のレパートリーに何本かを残しているのを見ても、それは明白だ。

 真山青果の台詞は理に詰んでおり、きっちり構築されているため、古典歌舞伎のような「遊び」がない代わりに、台詞を歌い上げたる場面や、深い心理描写に役者の腕の見せ所がある。『御浜御殿綱豊卿』の幕切れ近く、片岡仁左衛門の綱豊が、不意打ちを掛けて来た富森助右衛門を諭す場面の朗々とした台詞は、聞いていて気持ちが良い。また、『南部坂雪の別れ』で、すべてを己が胸に秘めて、降りしきる雪の中を黙々とゆく松本幸四郎の胸中を思えば胸に迫るものがある。本懐を果たし、家臣の面々と穏やかに死を待つ中村梅玉の『大石最後の一日』には、悲劇の前の静けさが詩情のように漂っている。

 「忠臣蔵もの」と呼ばれる芝居の多くは、四十七士が中心となるために、あまり女形の登場場面は多くはない。しかし、武士の間で交わされる男のドラマにも見どころがある。2006年には、国立劇場開場40周年記念公演として、10月から12月までの三ヵ月をかけて、全10編を完全上演する、という大掛かりな公演を行った。こうしたケースは滅多にあるものではなく、国立劇場という「通し上演」や「復活上演」を一つの旗印に掲げて来た性質を持つ劇場だからこそできた企画であり、その意義は大きかった。ただ、前述のように、邦楽が使われていないために、古典歌舞伎を通して観劇している感覚は薄かった。

 真山青果は、一編ずつが独立した演目としての上演に耐えられるように書き込んでいたのだ。かっきりと造り込まれた芝居を、近代的な感覚をプラスして演じることに、『元禄忠臣蔵』のもう一つの魅力がある、とも言えるのだろう。