日本の演劇史の中で、今までに最も多く演じられた翻訳劇ではないだろうか。作者は言わずと知れたシェイクスピア(1564~1616)。『ハムレット』に『オセロー』、『マクベス』、『ロミオとジュリエット』の四大悲劇はあまりにも有名だ。

 日本での初演は1903(明治36)年、川上音二郎の一座が東京・本郷座で上演したものだ。もっとも、この時は「翻案」で、人物は全員日本人、主役のハムレットは葉村年丸とされた。その後、1907(明治40)年に文芸協会により上演され、これが日本における翻訳上演の最初の舞台となった。訳者は坪内逍遥。当時の台本を見ると、ハムレットの有名な独白「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」という台詞が、「世にある、あらぬ。それが疑問ぢゃ」と訳してあり、時代を感じる。以来110年にわたって、『ハムレット』が上演されない年はないほどに繰り返されて来た作品だ。

 今までに何人のハムレットを観て来たか、正確には覚えていないが、20人は超えているはずだ。歌舞伎の片岡孝夫や市川染五郎の典型的な二枚目、劇団四季の山口祐一郎、田邊真也、平幹二朗の貫禄充分のハムレットもいた。中には、一般的な腺病質のようなイメージではなく、躍動的で活発な部分が目立つ蜷川幸雄が演出した真田広之のハムレットのような舞台もあった。また、『ハムレット』は仮名垣櫓文の翻案で歌舞伎にもなっており、市川染五郎が『葉武烈土倭錦絵』を演じ、ハムレットとオフィーリアの二役を演じた舞台もあった。

 オフィーリアとの若く美しいカップルへの同情が基盤にある上に、父を殺したおじ、そして真実を知りながらおじと結婚する母への憎しみ。舞台になっているのはデンマークの王室だが、考えようによっては二時間のスペシャル・ドラマによくあるような筋書きだ。これは、茶化しているのではない。どこの国にもあるような話の構造を持っているからこそ、世界各国で受け入れられ、人気のある芝居になったのではないか、ということだ。

 例えば、逆の例として、歌舞伎の名作、『熊谷陣屋』のように、主君に対する忠誠のために我が子の首を代わりに差し出すという芝居が、各国にあるとは考えにくい。自己犠牲の上に成り立つ「忠義」という感覚は、日本人ならではのものであり、しかも現代では死語となったばかりか、感覚としても生きてはいない。そういう意味での普遍性を持っていないのである。

 とは言え、シェイクスピアの時代には、すべての役を男優が演じたという歌舞伎と同じような状況で公演が行われていたことになる。

 話は変わるが、まだ古本屋がこれほど少なくない頃、オヤジがこぼしていた。「最近、変な名前の本が多くて困るよ。この間も、若い女の子が『車輪の上』ください、って来たから、それはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ、って教えたら、本当に『車輪の上』って本があったんだね」と。この本を書いたのは、米米CLUBのカールスモーキー石井だ。なんでこんな話を持ち出したかと言うと、かつて、紀伊国屋ホールで『ハゲレット』という、若禿げに悩む芝居があったからだ。主演は近藤芳正だった。

 時代が進むと何が起こるかわからないのは世の常だが、泉下のシェイクスピアも、安心して眠りにはついていられないかもしれない。