この秋に、松本幸四郎が現在の名前では最後の『アマデウス』を演じる。映画でも知られるこの作品は、天才・モーツァルトと、その才能に嫉妬の炎を燃やす宮廷音楽家・サリエリとの対立を描いたものだ。男の嫉妬ほど醜いものはないとはよく言われる話で、理性的なはずの大人でさえも隠せないほど、人間の根源的な感情なのだろう。
日本での初演は1982年、江守徹のモーツァルト、藤真利子の妻・コンスタンツェ、幸四郎のサリエリである。以来、他の役は変わったがサリエリは幸四郎が演じ続け、すでに400回を超えた。今度の上演は7年ぶりになるという。途中からは自らが「演出」の任も引き受けている。
作品のタイトルは『アマデウス』でも、実際の主役はサリエリである。若く、奔放な生き方をしながら、見事な音楽を次々に紡ぐモーツァルトへの嫉妬は、やがて破滅へ向かわせるための思考に変わる。
初演以来、東京での公演はすべて観ているはずだが、ピーター・シェーファー(1926~2016)の脚本が実に優れている。劇団四季で上演している『ブラック・コメディ』『エクウス』、黒柳徹子が上演した『レティスとラベッジ』など、日本で上演されている作品も多い。珍しいことに、双子の兄・アンソニー・シェファー(1926~2001)も劇作家で、推理劇『スルース』やミステリの女王、アガサ・クリスティの小説の脚色に多くの仕事を遺している。双子の俳優、というのはたまにある例だが、共に名を残した双子の劇作家というのは他に例がないのではなかろうか。
『アマデウス』の話に戻ろう。モーツァルトの破天荒とも言える天才ぶりは多くのエピソードが物語っている。35歳の若さで夭折したことも、「天才伝説」に色を添えているのだろう。この作品は、天才・アマデウス・モーツァルトと、その才能に嫉妬した宮廷音楽家・サリエリの対立構造が描かれるが、回を重ねて観るうちに、ある事に気付いた。私の解釈では、この芝居は、「天才同士の嫉妬と喧嘩」を描いているのではないか、ということだ。
もしもサリエリが凡庸な、政治手腕だけで地位を得た音楽家であったのなら、モーツァルトの天才ぶりに異常な嫉妬の炎を燃やすことはなかったのではないか。自分もそれと伍するほどの才能をかつては持っていたか、少なくも天才の音を聴き分ける「天才の耳」を持っていたからこそ、モーツァルトの存在が許せなかったのではないだろうか。
幸四郎が回を重ねるたびに、私にはサリエリの姿が、変容して見えた。前回の上演では、サリエリが主役の芝居ではなく、モーツァルトとサリエリの二人が、組んずほぐれつしながら長い音楽を奏でているような印象を受けたのだ。場面によってはサリエリが、時にはモーツァルトが表に出ることがあっても、二匹の大蛇が鋭い牙を剥き出しにしながら絡み合い、長大な曲を演奏しているような印象を受けたのだ。これは、私にとっては「発見」だった。同じ芝居を何度も観るのは、こうした発見の喜びを求めるからだ。独りよがりの感覚かもしれないが、この感覚を大事にしたい、とも思うのだ。
この秋、キャストを一新した『アマデウス』の舞台で、幸四郎のサリエリが今度はどのような姿を見せるのか。観客の予想を良い意味で裏切る舞台が出来上がることを楽しみにしている。これが「生の舞台」の魅力なのだ。畢生の舞台を期待したい。