明治から昭和にかけて活躍した泉鏡花は、明治以降の近代文学において、一つの「美学」の水脈を作った作家だと私は考えている。鏡花に端を発した耽美的な美学は谷崎潤一郎を通り、三島由紀夫に受け継がれ、赤江瀑(1933~2012)まで、時には地下を流れる水流のように連綿と続いた。
鏡花の膨大な作品群から一編を選ぶのは難しい作業だ。幻想・耽美の流れから考えれば、坂東玉三郎がレパートリーとしている『天守物語』や『海神別荘』が妥当であろうし、新派で繰り返し上演されて来た悲恋物であれば『婦系図』や『日本橋』が挙がる。
しかし、鏡花の戯曲の中で最も有名な『婦系図』は元来が小説であり、人口に膾炙した『湯島境内の場』は、上演に際して新たに書き加えられたものである。となると、ここでは芸者同士の達引きを描いた『日本橋』を挙げるのが妥当だと思う。舞台はもちろん、淡島千景の主演で映画化もされており、鏡花の代表作の一つとして遜色のない作品である。
題名の通り、「日本橋」を舞台に、芸者・お孝と、医学士の葛木晋三。その面差しに亡き姉の俤を偲ばせ、葛木がほのか想いを寄せる芸者・清葉。単なる三角関係の物語だと言えばそれで終わりだが、動のお孝と静の清葉の芸の対照、芸者同士の意地の張り合いを、鏡花独特の綾錦を織るような台詞で紡ぎ上げた芝居だ。今、こうした新派の世界に漂う抒情や詩情が、観客にはわかりにくい時代になってしまった。その中で、二代目喜多村緑郎、河合雪之丞の二人の役者が歌舞伎から新派に移籍し、新しい風を送り込もうとしている。
新派の芝居に出てくる女性は、元来「女形」によって造型されたものだ。この『日本橋』にしても、初代喜多村緑郎、その弟子の花柳章太郎と女形によって受け継がれて来た役だ。玉三郎が良かったのは、その源流と同じ役者の匂いを持っていたからだろう。片岡孝夫時代の現・片岡仁左衛門を客演に招き、二人が芯になって通して演じた時の『日本橋』は絶品、とも言える出来だった。
作者の鏡花も、自らの作品の舞台にした「日本橋」の上を、高速道路が通るとは夢にも思わなかっただろうが、この芝居の重要な場面に、すぐそばにある「一石橋」が出てくる。お孝と葛木の出会いで、「雛の節句のあくる晩、春で朧でご縁日…」と思わず真似をしたくなるような流麗な台詞が綴られている場面だ。幸い「一石橋」はまだいくらか昔の風情を残している。そして、「呉服橋」。芝居には出てこないが、ここのお地蔵様には、若き日の花柳章太郎が、お孝の妹分に当たる半玉(芸者の見習い)・お千世(おちせ)の役を演じられますようにと念じて奉納した絵馬が飾ってある。
日本有数のビジネス街の路地を曲がれば、ひそやかにこうした物が残っているのは、「江戸時代」以来の風情だろう。近代化のスピードは加速に拍車がかかるばかりだが、こうした痕跡が各地に残されている。利便性を追い求めるビジネスも、この程度の「遊び」を残しても罰は当たるまい。何よりも、東京の中心を流れている川は、時代の移り変わりを眺めてきたのだ。
とは言うものの、もはや泉鏡花の作品を教科書はもちろん、書店の棚で見かけることもめっきり少なくなった。歴史的仮名づかいの本を読みこなせる世代が減り、明治文学の「現代語訳」が出る時代だ。しかし、鏡花の美文だけは、現代語に訳すことはできないだろう。その途端に、詩情は枯れる。