新派の名作として名高いこの芝居、実は実際の事件を元にした作品である。15歳で新橋から芸者に出た「花井お梅」が、いくつかの花街を転々とした後、浜町河岸で芸者の身の回りの世話をする「箱屋」の峯三郎を殺害し、無期徒刑となった。40歳で釈放されたお梅は、自分の犯した罪を芝居仕立てにして地方を回ったり、店を開いたりしたが、いずれも長続きはせずに、53歳で世を去った。

 この事件に最初に目を付けたのは歌舞伎の狂言作者・河竹黙阿弥で、事件の2年後の1889年に『月梅薫朧夜』(つきもうめかおるおぼろよ)という世話物の歌舞伎に仕立てた。その後、劇評家の伊原青々園の名で『仮名屋小梅』という芝居が書かれ、1919年に新派が初演した。この題材は作家の興味をそそるのか、劇化はこれに終わらなかった。1935年に川口松太郎が『明治一代女』として自らが第一回の直木賞を受賞した小説を劇化し、同様に劇団新派で上演した。これが、現在も頻繁に上演されている芝居だ。一つの事件がわずか50年の間に三回も劇化されるとは、いかにも珍しいケースである。

 浜町河岸の売れっ子芸者・お梅には、沢村仙枝という情人がおり、襲名披露を控えているが、金策に苦労をしている。お梅は、自分に惚れている箱屋の巳之吉に、襲名披露が済んだら夫婦になるから名披露目(なびろめ)の金を用立ててくれと頼み、巳之吉は故郷の田畑を売った全財産をお梅に渡す。しかし、お梅はどうしても仙枝と別れる気にならず、真意を問う巳之吉を、誤って雪の浜町河岸で殺害してしまう。「襲名披露を一目見たら、自ら警察に名乗って出ます」と逃げながら、晴れの襲名披露の初日に、口上を聴きながら楽屋で自害をする。

 粗筋を書いていると、この「お梅」という主人公の女性はとんでもなく自分勝手で、殺された巳之吉は何とも気の毒だ。ところが、この矛盾を「お梅の悲恋」として見せるのが役者の腕であり、技量でもある。新派で花柳章太郎が初演した時は、歌舞伎座が割れ返るような騒ぎで、衣裳にも凝った花柳が自らデザインした、黒地に赤の太い縞模様の「赤大名」と呼ばれる衣裳はこの場面の型になった。以降、新派では「当たり狂言」の一つとして連綿と上演する一方、「商業演劇」と呼ばれる大劇場演劇でも、多くの女優や歌手が上演している。恐らく、川口作品の中では最も上演回数が多い作品ではないだろうか。

 いろいろな女優のお梅を観たが、眼に残っているのは山田五十鈴が1987年に創立100年を迎えた新派の記念公演に、特別出演した折の『明治一代女』だ。たっぷりとした体つきや女形を思わせる芸風が、往時の女形によって発展して来た新派の「芸」を蘇らせたような気がした。山田五十鈴はこの折、70歳。女優として、最後の円熟の境地に差し掛かっていた頃である。彼女は東宝の女優だが、父親の山田九州男(やまだ・くすお)は初期の新派の女形であり、父の故郷へ帰って芝居をする、という想いは少なからずあったはずだ。新派では他にも『太夫さん』(こったいさん)、『南地心中』など、彼女でなくては出せない味わいの芝居を見せた。

 自らを「大衆文学作家」と名乗り、生涯に遺した作品の数は把握できないほど、小説、映画、劇作の各分野で大ヒットも数多い川口松太郎。「芝居はその都度、役者によって動くものだ」と脚本集を出版しなかったのも、この時代の劇作家の見識の一つ、と言えるのかもしれない。