詩人、小説家、劇作家、映画監督、画家など多彩な顔を持つ20世紀の巨人とも言うべきフランスのジャン・コクトー(1889~1963)。優れた戯曲も残しており、『双頭の鷲』にするべきか、この『声』を取り上げるか、迷った末に『声』にした。
最近でこそ一人芝居は珍しくも何ともないが、1930年にこの作品が初演された時の反響は大きかった。「芝居」というものは、相手役があってこそ成立するもので、舞台には主人公の女性一人しかおらず、そこで当時の近代文明の利器の一つである電話を使い、混線の挙句につながった別れた恋人との会話をする、というものだ。『ハムレット』の独白のように、一本の芝居の中で一人台詞を喋ることはあっても、一人で喋り続けながら、一編のドラマを紡ぎ出す試みは、今の我々の感覚以上にセンセーショナルであったことは間違いない。
この芝居の日本での初演は、本国のフランスよりかなり遅れ、1948年、文学座の杉村春子による。昭和23年という、日本がようやく戦後の混乱から立ち直ろうとする時期に、この芝居が日本で演じられたことになる。以降、数多くの女優がこの芝居を演じ、また、この作に刺激を受けて多くの一人芝居が生まれた。池畑慎之介も演じているが、珍しいところではアニメ『オバケのQ太郎』のQ太郎の声でお馴染みだった曽我町子(1938~2006)が演じたものが印象に残っている。高校一年生の時に、新宿のサロンで演じたのを、仲間と観に行った。小さな場所での限られた公演だったので、そう多くの人が観ているものではないだろう。高校生の私にしてみれば、「『オバQ』の曽我町子が芝居をする」という興味と、もう一つの興味を持って足を運んだ。当然、コクトーがこの芝居で何を言おうとしたのかなど分かるはずもなく、ただ感心して帰って来ただけだった。
上演時間は一時間弱。その中で、コクトーはただ別れた恋人に対する女性の想いを語らせただけではない、と今の私は考えている。この女性の人生の断片、豪奢な飾り付けがなされた自分の居間で、当時は高級品であっただろう「電話」を片手に、時に混乱し、哀願し、という長い人生の一コマを切り取って描いたのではなかろうか。
この断片から、観客が何を感じ、何を読み取るかは自由である。同時に、「答えはこうです」と言うほどにこの芝居は親切ではない。最初から100人が同じ解釈をできるような芝居であれば、コクトーはこの芝居を書かなかっただろう。終わった後で、観客の感想がバラバラで「あの女性のその後」を考える観客もいれば、舞台には登場しない「かつての恋人」の姿に想いを馳せる観客もいるはずだ。
こうした手法が、今から90年近く前にどれほど斬新であったか。仮に、スマートフォンを小道具にした一人芝居が、50年後に残っているだろうか。見掛けは至極単純な造りながら、どこまでも深く考えることができる、という思い込みを与えるのも、コクトーの手腕ではなかったのだろうか。だからこそ、長い歳月を経た今も、一人芝居の名作として、上演され続けているのである。
コクトーは、20世紀を代表するシャンソン歌手、エディット・ピアフとは大親友で、多くの仕事をした。ピアフが47歳の若さでその壮絶な人生を終えた瞬間、コクトーも死の床にあった。ピアフの訃報を知ったコクトーは急に容態が悪化し、その数時間後に亡くなった。フランスは、同じ日に偉大な芸術家を二人喪ってしまったことになる。