中学生の天才棋士が話題だが、『王将』は大阪に実在した棋士・阪田三吉(1870~1946)をモデルに、大阪出身の劇作家・北條秀司(1902~1996)が描いた作品だ。1947年に新国劇の辰巳柳太郎(1905~1989)が有楽座で初演した舞台が大ヒットし、以後、「第二部」「第三部」まで創られ、初演の翌年には阪東妻三郎、1955年には辰巳柳太郎、62年には三國連太郎、73年に勝新太郎で映画化された。そればかりか、三國連太郎が主演した折の主題歌『王将』が村田英雄によって歌われ、ミリオンセラーを記録している。「吹けば飛ぶような将棋の駒に~」という歌い出しは、多くの人が知っているだろう。舞台劇が映画、歌謡曲にまで派生した例は他にもあるが、その広がり方という点でもスケールの大きな作品だ。緻密な劇作を得意とした作者ならではの作品とも言える。

 世間的な常識には一切頓着せず、礼儀作法もあればこそ、ただただ将棋を指すことしか考えていない三吉には、相手が名人であろうが、対局場所が路地の縁台であろうが一切関係ない。ただ、目の前にある将棋盤と駒しか見えなくなってしまう。そんな武骨で一途な男の役が、辰巳柳太郎の持ち味にぴたりとはまり、ライバルであった島田正吾の関根名人の芝居との「動」と「静」のコントラストも非常に効果的だった。役者の芸質を知悉している作者だからこそ書けた脚本だろう。後に、辰巳の弟子だった緒形拳や、クレージーキャッツの植木等もこの役を演じたが、やはりこれは辰巳のものだった。

 女房・小春の病が重くなって、急を告げた時にも振り向きもせず、将棋盤に向かう三吉の姿には、「一筋の道に精進する」という高邁さはない。その代わりに、もっと人間臭い、情味に溢れた庶民の感情がある。扱っている題材が「将棋」という、広くに親しまれているものだったことも功を奏したのだろう。それで、一気にいろいろなジャンルへ派生したのだ。三吉の「わての銀が泣いとる」という有名な、かつ一言で三吉の性格を現わす台詞の巧さなどは、作者ならではのものだ。多くの資料を収集し、緻密に人物を掘り下げる北條秀司の作劇術が見事に発揮されている。その分、自作に対する眼も厳しく、台詞は台本を一字一句変えてはならず、稽古も熾烈を極め、一歩も譲らぬところから、「強情天皇」とのあだ名が付いたほどの舞台の鬼、とも言うべき作家だ。

歌舞伎・新派・新国劇・宝塚・長谷川一夫、山田五十鈴、森繁久彌など、大劇場や名優と呼ばれる役者のほとんどに作品を提供している多作家で、佳品はいくつもある。この一作、となればやはり『王将』だろう。六世中村歌右衛門の『建礼門院』、森繁久彌の『狐狸狐狸ばなし』、島田正吾の『霧の音』、長谷川一夫の『紙屋治兵衛』、初代水谷八重子の『京舞』など、いずれ劣らぬ名作が揃っているが、辰巳柳太郎という役者の持ち味を生かし切った作品としては、随一の作と言えるだろう。

 柳の下の泥鰌という例えがあり、成功するとすぐに続編を創ろうとするのは映画も芝居も変わりはない。古い川柳の「二度目には与一も困る扇なり」そのままだ。加えて、三部まで、となると大きな冒険になるのも事実だ。映像であればまだしも、舞台はさらに危険性が高い。それを見事に成功させたのは、作者と演者が一体になった舞台の成果である。

この舞台が将棋の普及に貢献したことを認められ、北條秀司は将棋連盟から三段の免状を貰った。ところが、肝心の本人は、将棋の「し」の字も知らなかった。