「月も朧に白魚の、かがりも霞む春の宵。冷てぇ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと…」と、耳になじんだ七五調の科白は何とも心地良く、歌舞伎好きにはたまらない。『三人吉三』で知られる黙阿弥の名作は、今でも「大川端の場」がよく上演されている。一幕物で上演時間が短く、二枚目の「お坊吉三」、女形が演じる「お嬢吉三」、兄貴分の貫禄を見せる「和尚吉三」と個性の違う役者の顔ぶれが揃うのも楽しい。
節分の夜、名も同じ「吉三」という三人の泥棒が偶然出会い、一度は刃を交えるものの、義兄弟の契りの盃を交わし、夜鷹から百両の金を盗む。「大川端」の粗筋はこのようなものになるが、万延元(1860)年に『三人吉三廓初買』(さんにんきちざくるわのはつがい)の名で初演され、再演から表題のタイトルに変わったこの芝居、実は七幕という長さに及ぶ長編だ。時折、完全ではないものの、通して上演されることがあるが、そうなると見える風景が全然違って来る。歌舞伎では、特定の場面だけを抜いて上演することを「みどり」と呼ぶが、通して上演した場合と「みどり」とで、これほどに様相が一変する芝居も珍しい。
「親の因果が子に報い」の諺があるが、物語は江戸時代に好まれた因果話に加え、当時は最も忌むべきものとされた近親相姦など、内容はどんどんディープかつダークな世界へと進み、ドロドロとした人間関係が露わになる。十年足らずで新しい「明治」という時代を迎えようとしているこの時期に、黙阿弥が描いた物語は、得意とした泥棒を主人公にしただけではない。主人公の三人はもちろん、彼らを巡る人々が、心ならずも外れくじばかりを引いてしまう「宿命」が描かれている。少し前の時代を生きた鶴屋南北は、好んで庶民のしたたかさや残忍さを描いたが、この作品で黙阿弥の描いた三人の若者には、アウトローとしての道を選ばねばならなかった者たちの「哀しみ」や「諦め」が漂う。世紀末的な退廃、と呼んでもよいかもしれない。そこには、『河内山』のようなずる賢さも、人を食った勢いもない。大詰め、『櫓のお七』の姿をそのままに、降りしきる雪の中、仲間のために禁を犯して火の見やぐらに上がり、木戸を開けさせて逃がすために太鼓を打ち鳴らすお嬢吉三の姿に、日本人が好む「滅びの美」の一つの形が投影されている、とは言いすぎだろうか。
「大川端」だけでも一体何組のトリオを観て来ただろうか。歌舞伎の凄いところは、「三人吉三」を、10代の役者も50代の役者も演じられるところだ。前者にはリアルな若々しさがあり、後者には長年鍛えた芸の腕がある。年齢や外見だけの問題ではなく、「いかにその役に見えるか」という芸を問われる歌舞伎の一つのモデルを現わしている。かなり古い話になるが、昭和57年2月、歌舞伎座で上演された折の「大川端」が眼に残っている。市川海老蔵(後の十二世市川團十郎)のお坊吉三、尾上菊五郎のお嬢吉三、初代尾上辰之助の和尚吉三、いわゆる「三之助」の舞台だ。35年の歳月は辰之助と團十郎を奪ってしまったが、いずれも30代の匂い立つようで、芸の腕も上がって来たぴちぴちした勢いのある舞台は忘れ難い。
今後も、さまざまな顔ぶれでこの演目は歌舞伎の人気作品の座を占めてゆくことだろう。しかし、一部分だけではなく、この作品が持っている陰影までをもしっかりと観客の眼に焼き付けるような舞台を、何回かに一度の割合で上演してほしいものだ。