『三文オペラ』、『ガリレイの生涯』、『コーカサスの白墨の輪』などの代表作を持つブレヒト(1898~1956)はドイツの劇作家だ。日本では俳優・演出家として大きな功績を遺した千田是也によって、俳優座が取り上げて来たケースが多いが、昨年の秋、石川県の能登演劇堂で無名塾の仲代達矢が約30年ぶりに演じ、3月末からは東京・世田谷のパブリックシアターでも上演されるという。

 この舞台を能登で観た折には、能登演劇堂ならではの構造を活かし、舞台の後ろ壁を開放し、そこから続く里山を、地元のボランティアが演じる多くの兵士たちが登場する、という演出法で見せた。秋の夕暮れになると、空けはなった舞台からは山の冷気が劇場の中に流れ込んで来る。観客は視覚や聴覚だけではなく、五体で「肝っ玉おっ母」が歩く道の感覚を共有することになる。能登演劇堂では、以前仲代達矢が『マクベス』を演じた折にも、同様の手法で大きな効果を挙げていたが、東京での舞台はどんな形で見せてくれるのだろうか。

 第二次世界大戦のさなか、ドイツ、ポーランドなどを大きな荷車を引き、女で一つで三人の子供たちを引き連れながら行商をして歩くアンナ。「肝っ玉おっかぁ」と呼ばれるだけあって、些細なことには動じず、気前よく、愛想よく兵士などを相手に商売をしている。しかし、その生活環境は過酷で、やがてアンナをも呑み込み、男の子たちは戦争へと駆り出されてゆく…。

 この物語はアンナを中心とした「家族」が描く反戦劇だ。しかし、声高なシュプレヒコールがあるわけではなく、アンナの嘆きや愚痴の中で、戦争への想いが語られる。何の関係もない一般市民を巻き込んでしまうところに戦争の残酷さの一面があり、その風景や生活を通じて作者のブレヒトは反戦を訴えている。今、折しも日本を囲む周辺各国が複雑な政治状況の中にあり、娯楽であるはずの「演劇」とても政治や外交と無縁の世界ではないことを同時に知らされる。

 仲代達矢は、誰が見ても「女性」を演じるのに向いた役者ではない。しかし、このアンナという役はあえて「女性らしく」演じる必要はなく、むしろ「男まさり」という、今では差別に取られかねない胆力と強靭な精神力を持っていなくてはならない。だからこその「肝っ玉おっ母」であり、あえて女性のように演じる必要はない。その代わり、打ち続く困難の中で、ふと漏らす言葉の中に、哀しみや自分では抗いようのない力に対する嘆きが深まるのだ。

 「先の大戦」と呼ばれる戦争が終わって今年で73年になる。戦争を体験した人の数は減るばかりで、戦争の方法も手段も激変した。一見平和な日常が続く中で、一瞬にして国が丸ごとなくなってしまうような戦争が絵空事の時代ではない。民族や宗教、思想の違いなどはさまざまあるにせよ、同じ人間同士が命を代償に闘い、傷うつけ合うことの愚かさを、戦争を知る世代の役者が演じることには大きな意味を持つ。

 世の中のどこかでいつも戦争が起きている状態で、我々日本人は戦争に関する感覚が希薄な部分がある。それを幸福な状態、と言ってよいのかどうか。隣国と国境を接していない島国ならではの、自然に守られた環境で培われた民族性だろうが、60年以上前にブレヒトが描いた芝居が訴える内容は今も充分なリアリティを持っている。