1975年7月にブロードウェイで初演されたミュージカル。マイケル・ベネットの原案・振付・演出、マーヴィン・ハムリッシュの音楽によるもので、ブロードウェイの劇場を舞台に、オーディションに参加するダンサーたちの姿を描いている。舞台の裏側を描いた「バックステージ物」と呼ばれる作品群の一つだ。煌びやかな世界の裏側には多くの人が興味を示すが、そこにあるのは過酷な現実だ。同時に、さまざまな人間模様が展開されてもいる。それを、音楽やダンスと共に見せるのがこの作品だ。

 タイトルの「コーラスライン」とは、稽古場で舞台の上に引かれている白い線のことで、役名もない出演者たちが、前に出ないようにと引かれる目印の役割を持っている。同時に、メインキャストとコーラスを隔てる象徴でもある。日本では劇団四季が1979年9月に初演の幕を開け、劇団の財産演目の1つとして上演を繰り返している。私がこの舞台を初めて観たのは30年以上前、大学生の折で、自分が目指そうとしている演劇の世界の厳しさに打ちのめされた記憶がある。以来、何度もこの舞台を観ているが、自分が年齢を重ねながらこの作品に接して来た中で、立場や役目も変わり、感覚も変わった。決して作品に対する感動が色褪せたわけではなく、むしろよりリアリティを増して我が身に迫って来るようになった、と言えるだろう。

 ショービジネスの世界の厳しさを描いた作品であると同時に、『ワン』『悔やまない』などの美しいミュージカル・ナンバー、キレの良いダンスなどを交えた一幕物のミュージカルだが、それだけではない。

 稽古場で舞台上に並んだ人々にダメを出し、選別をする演出家のザックは、舞台の上に出て来る人々の演技やダンスのステップだけではなく、その人が背負って来た半生の背景を容赦なく抉り出そうとする。そのやり取りは、残酷とも言える。辛い半生を背負ってオーディションに臨んでいるメンバーの中には、ザックの元の妻もいるが、相手が誰であろうが、ザックは容赦なく人間を裸にする。誰でもそうだが、厭な想い出を語るには、その事実を想い出し、頭の中で整理し直さなくてはならない。そんなことまでして、仮にこのオーディションに合格しても、スターの座が約束されているわけでも何でもない。名もないコーラスの一員になれるだけのことで、それも、何かあればすぐに交替要員が用意されている。その中で這い上がり、「スター」と呼ばれる栄光の座席を手にするからこそ、輝きを放つのだ。

 しかし、どこの世界でもそうだが、段階が上へ行けば行くほど用意されている席の数は少なくなる。また、壮絶な苦労をしてその席を手に入れても、どれほどの間そこに座っていられるか、何の保障もない。一瞬でも席を立てば、次の瞬間には他の人が座っている。「ショービジネスの世界とはそういうものだ」と言えばそれまでだが、この作品を観ると、日本の演劇界が、どれほどの覚悟を持っているのだろうかと感じる時がある。俳優もスタッフも消耗品のように使われ、仕事を休んで自らのステップアップのために勉強をする余裕などない。少しでもテレビに出ないと、すぐに「あの人は今…」と言われてしまうほどに、そのサイクルは速くなっている。この新陳代謝が演劇界の活性化に良い影響を与えているのであれば問題はないのだが、そうばかりとも思えない。ここに現在の演劇界が、過去の習慣をそのままにして来た病巣が生み出した弊害が起きているように感じるのは私だけだろうか。