「あわい」とは、人や物事の「間」という意味だ。古来、日本人は物や動植物、気候などに例えて、ストレートに感情を相手に伝えることをあまり好まなかった。恋愛においても、自分の想いを何かに「仮託」し、間接的な表現を好む傾向があり、直接的な表現は卑しいと感じる向きもあった。
しかし、明治維新以降、はっきりと自分の意見を述べることが世界標準であるとされ、いつしかその中で生きることに不自然を感じずにいる。いくら四方を海に囲まれた国でも、150年を超える海外諸国との付き合いの中では必然的な流れだろう。
それが昂じて、なのかどうか、最近は違った感覚で、異常に神経質なまでの表現に変化している。率直に物を言うと、「ハラスメント」だと言われ、思ったことを言うに言えない状況が増えてもいることや、「モンスター〇〇」の出現もその一例だ。時代が巡っても、人の考えがそう簡単には変わらないことの証拠だとも言える。
私が観てきた芝居の中で、明治中期におきた「新派」は、「情のあわい」を大切にいとおしんだジャンルではないだろうか。泉鏡花、久保田万太郎、川口松太郎、北條秀司などの劇作家が提供した作品群には、そうした場面や台詞が多く描かれている。鏡花の代表的な舞台作品『婦系図』、『日本橋』、万太郎が脚色した樋口一葉の作品の数々、川口の『鶴八鶴次郎』、『遊女夕霧』、北條の『太夫(こったい)さん』などなど。
しかし、芸道に生きる人々や、芸者の生活の中で起きる情愛の問題などは、現代社会からは遥かに遠い存在になってしまった。その中で、新派の良さを理解しろと言ってもこれは無理な話だ。愛する男と別れさせられ、男は静岡へ行くと言う。それに対して「静岡って箱根よりも遠いんですか」と聞く女性の姿を、今の観客はどう観るのだろうか。演じ方次第では、東京を出たことのない芸者の生活と寂しさを感じもしようし、「何と無知な」と思うかもしれない。こんな台詞を言わせる男も、言うに言われぬ「義理」のため、涙をこぼしているのだ。
たった一言「時代遅れ」とすませてしまうこともできるが、それでは先人が遺した作品や演技に失礼である。同時に、その演技に涙した自分の過去を否定することにもなる。昨今のようにどこかギスギスした世の中では、いっそこうした感覚が懐かしく思えることも少なくはない。過当競争を生き抜くための自己主張は大事だが、その中でひっそりと身を退く潔さもまた、かつての日本人は持っていたはずだ。もっとも、今、そんなことをしていたら、蹴倒され、その上を踏み付けられて終わるだけのことだ。もはや謙譲も遠慮も、美徳だなどと言っている余裕はない。ただ我武者羅に、どこかへ突き進まないと、不安なのかもしれないと、自分の仕事の仕方を観ても感じることがある。時折、暇があってぼやっとしていても「忙中閑あり」を楽しむどころではなく、何か罪悪感に駆り立てられる。それだけ精神的に余裕がないのだろう。
「働き方改革」が叫ばれ、演劇界にもその考えが浸透しそうな気配もある。少し暇で、考えることに時間が割けるようでなくては、「情のあわい」を感じ、そこに想いを致すいとまもない。