1960年代から70年代に掛けて演劇界の新しい胎動として大きな足跡を残した「アングラ演劇」。これがどういう内容の作品を意味するかは明確な定義が難しく、意見の分かれるところだが、今までの「お芝居」の形式を打破し、一見破天荒とも思える設定、それまでの演劇ファンの想像の範囲を超える前衛的な内容などで、当時の若いファンを獲得した。当時の日本の政治の動きとも相まって、大きなムーブメントになったことは「昭和の演劇史」に留めておく意味がある。

 演劇実験室「天井桟敷」を主宰した寺山修司(1935~1983)、「状況劇場」の主宰、唐十郎(1940~)、佐藤信(1943~)などが中心になった「劇団黒テント」などが当時の「アングラ演劇」を牽引する大きな力となった。

 その中で、元・唐十郎夫人で「アングラの女王」の名をほしいままにした李麗仙(り・れいせん、1942~2021)が79歳でその生涯を終えた、との知らせは、大きな衝撃を与えた。2年ほど前から病の床にあったのは聞いていたが、あまりにも突然に目の前から姿を消してしまった印象が強く、復活してまた力強い演技が観られるものだと、理由もなく期待していただけにショックは大きい。

 名前からもわかるように「在日韓国人3世」で、1975年に日本に帰化した。それまでの経緯はいろいろあるものの、舞台女優として他に例を見ないとも言える個性は忘れ難いものがあった。アングラだけではなく、俗に商業演劇と呼ばれる作品や翻訳劇、テレビドラマにも出演し、その実力のほどを遺憾なく発揮したのは多くの人が知るところだ。

 個人的に言えば、2015年に唐十郎の作品『少女仮面』で演じた宝塚の大スター、春日野八千代(1915~2012)の颯爽とした白いパンツスーツ姿は、今も眼に鮮やかに残っている。力強い台詞と決して大きいとは言えない身体から醸し出す迫力、身にまとった雰囲気が、下北沢の小劇場の空間を圧倒するスケールで迫って来た。実在の人物をモデルにした作品は数多く、本人に似せる場合もあれば、あえて似せないケースもあるが、李麗仙にしか演じることのできない「春日野八千代」を見せたのが、一つの真骨頂だったと考える。

 意外な出会いだが、李麗仙の舞台との最初の邂逅は約40年前のことになる。当時、大学生でアルバイトをしていた日本橋の三越百貨店の中にある「三越劇場」から歩いて5,6分のところに、1980年の「呉服橋三越ロイヤルシアター」という劇場がオープンした。

 この劇場で、1982年に「六人の作家と六人の女優による一人芝居」という一人芝居の六本立てというユニークな公演が、演出家の木村光一が主宰する「地人会」と劇場の提携で行われた。昼の部でアーノルド・ウェスカーの『四つの肖像』を大塚道子、宮本研の『花いちもんめ』を萩尾みどり、水上勉の『乳病み』を神保共子が演じた。夜の部では、井上ひさしの『化粧』を渡辺美佐子、岡部耕大の『還りなん いざ』を藤田弓子、そして呉泰錫の『母(オモニ)』を李麗仙が演じたのだ。

 これは当時としてはかなり斬新な試みであると同時に、今も演じられている一人芝居の名作『化粧』の初演でもあり、その後の演劇史、特に「一人芝居」の分野に大きな示唆を与えた公演とも言える。その一本を李麗仙が担い、韓国の作品を演じたのは珍しくもあり、新鮮でもあった。今ほど韓国演劇の優秀な面が評価されてはいない時代ではあったものの、アルバイトを放り出して姉妹劇場であるロイヤルシアターの客席に潜り込んだ。40歳になるかならぬかの李麗仙が演じる韓国の母親の姿は、切なさや哀しみ、怒りなどの感情が錯綜した濃密な舞台で、その台詞の力強さには目を見張った。

 以降、彼女の舞台を網羅してきたわけではないが、幅広い活躍を観ながら、「アングラ」「大劇場演劇」などのジャンルに関係なく、確かな実力を持った得難い女優だと感じていた。

 私生活では唐十郎との離婚だけではなく、在日韓国人3世としての悩みも多かったはずだ。しかし、それらを超えて各国共通の「母の強さ」を知らせてくれたばかりではなく、女優として変幻自在の魅力を見せてくれたことは有難い。この「コロナ禍」の中で多くの俳優が鬼籍に入り、キチンとした形でのお別れもできず、寂しさや無念の想いが募る一方だ。もう一度だけ、あの『少女仮面』で見せた華麗なる李麗仙の姿を観たかった、と今は痛切な寂しさと共に感じている。