明治から昭和の初期にかけて、「八丁荒らし」の異名を取った女芸人・立花家橘之助(たちばなや・きつのすけ、1866~1935)。子供の頃からの寄席芸人で、8歳で真打という天才の片鱗を見せた。まだ、東京に寄席が100軒以上あった時代の事だが、橘之助が出ると、周囲八丁の寄席から客がいなくなる、と言われたのだ。一丁とは今の単位で100メートルちょっと、周囲800メートル四方の観客を奪うほどの人気があった、ということだ。寄席で「トリ」と呼ばれる最後の高座は落語、と決まっているが、例外として女芸人でトリを取ったことからも実力の程がわかる。
この橘之助の生涯を描いた芝居が『たぬき』で、公私共に山田五十鈴の魅力を良く知っており、寄席演芸にも造詣が深かった榎本滋民が書き下ろし、昭和49(1974)年に芸術座で初演、芸術祭大賞に輝いた作品だ。日下武史、古今亭志ん朝、小鹿ミキ、一の宮あつ子、丹阿弥谷津子に加え、本職の寄席芸人の江戸家猫八を含めたベテラン、芝居巧者でまとめた舞台は大好評で、翌年すぐに再演、その後、名古屋、大阪と各地で上演し、昭和56(1981)年には橘之助の後半生を描いた『新編たぬき』が書き下ろされた。昭和58(1983)年には、芸術座の公演で昼の部で『たぬき』を、夜の部では『新編たぬき』を上演し、昼夜通して橘之助の生涯を演じるという試みが行われ、舞台を食い入るように観ていた記憶がある。この折、山田五十鈴66歳。
山田五十鈴は、自身が16歳で清元の名取になるほどの邦楽の名手だったが、それでも劇中で演奏する10分を超える「浮世ぶし」には苦労をしたというエピソードがある。当時、これを自分の持ち芸にしていた日本橋きみ栄から、「覚えるのに一年はかかるわよ」と言われたのを、四六時中カセットテープを離さずに、半年で覚えたそうだ。この曲は橘之助が創ったもので、新内、長唄、小唄、端唄、都都逸などの音曲を混ぜたもので、今で言う「超絶技巧」だらけの難曲である。橘之助に扮する以上、寄席で演じている場面は芝居の中でも重要なシーンになるが、ここを効果的に見せるためには、本人が弾かねばならない。仮に録音に合わせるという案があっても、生まれ付いての女優であるような山田五十鈴は決して首を縦には振らなかっただろう。
苦労の甲斐が見事に発揮され、高座で『浮世ぶし』を弾いている山田五十鈴の姿の嬉しそうな顔は忘れることができない。たっぷりとした体格が、昔の女芸人、立花家橘之助はこういう人だったのだろう、と観客を納得させるだけの物を醸し出し、年齢を感じさせない色香にも溢れていた。よく「芸は一代」と言うが、まさにこの『たぬき』は、邦楽の技術的な問題だけではなく、山田五十鈴のために書かれた、彼女だけの芝居だろう。
メンバーを変えて多くの人に演じられながら回を重ねる名作もある一方、その人でなくては演じられない名作もある、ということだ。どちらが良い悪いの問題ではなく、作品と役者の性質の問題だ。ともあれ、もう上演不可能な芝居ではあるが、こんな名作に出会えたことの幸福は、まさに、舞台と観客の一期一会であろう。
『たぬき』の幕切れ近く、子供の噺家に橘之助が優しく言葉をかける場面がある。この子供は、後に昭和の名人と言われた六代目三遊亭圓生(1900~1979)の少年時代の姿だ。これは、落語を愛してやまなかった作者のちょっとした「遊びごころ」だったのかもしれない。こんな遊びの場面も含めての名作なのだ。