私は「オーラ」という言葉が好きではない。どういうものか、感覚では理解できても、納得する言葉が見つからないからだ。日本語で「華がある」とか「凛々しい」という言葉なら、意味は違うがしっくり来る。
一回目は、市川海老蔵。不幸にして、父・團十郎をあれほど早くに亡くすとは予想しなかったが、ここ二年ほどの彼の活躍ぶりを観ていると、内面で「何か」が変わったとしか思えない。はっきり言って、急に芝居が巧くなったわけではない。技術的な問題よりも「意識」が変わったのは確実だ。しかし、それだけで急に芝居が巧くなるわけではない。父の團十郎もよく指摘されていたように、科白の発声には難がある。歌舞伎役者の魅力を評価する言葉に「一声、二顔、三姿」というのがあるが、この「声」には声質の善し悪しだけではなく、科白術も含まれている。その点で言えば、海老蔵は不利な立場とも言えるのだが、不思議な魅力を持っている。その魅力を人は「オーラ」と呼び「華」と呼ぶのだろう。
私が考える海老蔵の魅力は、まず「姿」である。凛と端座した姿は、時に高貴であり、時に限りなく美しい匂やかさを放つ。次に、「眼」だ。市川宗家代々の「にらみ」で見せる眼もさることながら、海老蔵の眼の奥に潜んでいる「悪の眼」に、私は魅力を覚える。歌舞伎の役柄に「色悪」というものがあり、読んで字のごとく、色男の悪人のことだ。例えて言えば『四谷怪談』の民谷伊右衛門であり、『桜姫東文章』の権助である。ぶっきらぼうで女に冷たいくせに、女が惹かれて行くのは、眼の奥深くの燃える悪の爛れた、それでいて力強い魅力に吸い込まれるからだ。この力は海老蔵の大きな武器だ。
もう一つの魅力は、「肉体」だ。役者は誰も肉体が資本で、気力、体力、精神力は欠かせない。また、単に姿が美しいだけでは魅力にはなりえない。そこに加わる「何か」が役者の味になり、個性になる。海老蔵は言うまでもなく二枚目だが、そこに何が加わるのか。私は今まで、三十年以上歌舞伎を観ていながら、歌舞伎役者の肉体をセクシーだと感じたことはなかった。しかし、彼が『夏祭浪花鑑』を演じた時に、大詰めの泥場の立ち回りで緋縮緬の下帯一枚で立ち回りを演じる姿に、歌舞伎役者にセクシーな肉体があることを納得させられた。この役は今まで多くの役者が演じて来たが、何かしっくり来ないのが「身体付き」だったのだ。棒手振りと呼ばれる、天秤をかついで新鮮な魚を売って歩く上方の男伊達の役の肉体が持っているような特徴を、海老蔵の肉体は持っていたのだ。
役者はかなりな重労働ではあるが、スポーツ選手ではない。しかし、人に観られる仕事だ。彼の中には、その意識が非常に高いように見える。それは、市川宗家、十三代目團十郎を継ぐ者、という意味ではなく、30代の一人の青年俳優としての物の考え方だろう。どんな役を演じるにしても、外面も内面も充実していなくては、その表現は不充分になる。外見の充実とは、単に美醜の問題ではなく、その役が持つべき肉体かどうか、ということだ。この時は、偶然の一致、の範疇だったのかも知れない。しかし、そこに新たな海老蔵の魅力が潜んでいることはれっきとした事実だ。彼が、今後、外面と内面をどう充実してゆこうとし、その先に何を見ているのか。偉大な父を亡くしたことによる重責は計り知れないものがあるだろう。しかし、彼には、それをブチ破るほどの破天荒なエネルギーがある。そのエネルギーが暴発し、マグマのように舞台の上で噴き出す日を楽しみに待ちたい、そんな気分にさせる役者が「市川海老蔵」なのだ。