ずいぶん古くから観ている役者の一人だ。30年以上、すべての舞台を、というわけではないが、いろいろな物を観て来た。あえてここで記すまでもなく、役柄の幅の広さ、器用さでは演劇界でも指折りだろう。コメディもやればシェイクスピアもやるし、新作にもどんどん挑む。1975年に劇団「雲」から芥川比呂志を中心に独立した演劇集団「円」の代表取締役でもある。話が複雑になるが、劇団「雲」はそもそもが文学座から分裂してできた劇団であり、私が最初に観たのは1979年のサンシャイン劇場での『夜叉ヶ池』ではなかったか。高校生の頃の話だ。今や、演劇界の重鎮の一人でもある。
橋爪功の凄いところは三点あると考えている。最初に、100人程度の小劇場やアトリエであろうが、1000人規模の劇場であろうが、その規模に応じた自由自在な芝居をすることだ。これは今に始まったことではなく、私が観始めた頃からすでにその能力に驚嘆したものだ。役者には「空間把握能力」とでも言うべき力があって、人により適した大きさの劇場がある。前回書いた市川海老蔵は、歌舞伎役者ということもあるが、100人規模の劇場では収まりきらない。身長の問題ではなく、スクリーンの「画格」の問題、だろうか。歌舞伎は現在は大きな劇場での公演ばかりで、そういう規格の芝居で育ったからだ。それが悪いとは言わないが、橋爪功には自らこうでなくては、という規格はない。劇場や舞台の寸法に応じた芝居をいかようにも演じて見せる。こういう役者はそうはいないものだ。脇役であればまだしも、主役級の役者になればなるほど、「画格」は大きくなって当然だからだ。
もう一つは、柔軟性だ。今年、73歳になるとは思えないほどに、頭も身体も柔らかい。身体はトレーニングで補える部分もあるが、野田秀樹の芝居に平気で出てしまえる感性の柔らかさは、見事な柔軟性だと言える。野田作品には何本か出演しているが、そのうちの『し』は、野田秀樹との二人芝居だ。野田秀樹も良く動く役者だが、10数歳の年齢差を感じさせないほどにしなやかな芝居をする。この柔軟性は、最初の「画格」の柔軟性とも共通した魅力だ。
最後に、これは他の雑誌でも書いたことだが、追い詰められた時の卑屈な芝居の巧さだ。橋爪功がどういう性格で、人付き合いがどうなのか、私は知らないし、知る必要もないと考えている。しかし、2007年に田原町のアトリエ公演『実験 ヒポクラテスに叛いた男』で見せた、ずる賢い役で追い詰められた時の芝居や、役そのものがどうでも良くなっているような心理にある時の芝居は、他の人では代え難い巧さを見せる。昨年の夏に見せた『ドレッサー』などは、後者の点で近年の代表作とも言えるだろう。最初の二つの魅力を持った役者はまだしも、この点で橋爪功の巧さは凄みさえ感じさせる。
年齢に応じた役も多くはなって来たが、姿形で勝負する役者ではなく、もともと腕で勝負の役者だ。ベテランの味、などという凡庸なものではなく、カメレオンのように何色にでも変化する役者としての、これからの老熟が楽しみだ。何よりも、枯れないのが嬉しい。枯れているようで、その中に脈動している人間の生臭さが感じられる。それが、橋爪功の他の人にはない魅力なのだ。これは、年を重ねるごとにコクの出て来る味だ。そうそう、その味わいは、バランタインの30年物などの芳醇な香りに通じるものがある。一級品、である。