エッセイ

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「追悼・日下武史さん」2017.05.18

 劇団四季の創立メンバー・日下武史が86歳で亡くなったという知らせを聞いた。静養先のスペインでのことだったという。以前から体調を崩していると耳にしており、年齢的な問題も考えると、もう舞台を観ることは叶わないだろうとは思っていたが、たとえ芝居ができなくても「日下武史がいる」という精神的な支柱の意味は大きかった。 続きを読む

私が選んだ100本 006.『ふるあめりかに袖はぬらさじ』作:有吉佐和子

7月に明治座で大地真央が明治座で演じると話題になっている。ただ、「音楽劇」と銘打ってあり、そのままの形での上演ではないようだ。小説家として数多くのヒット作を生み出した有吉佐和子(1931~1984)は、古典芸能に造詣が深かったことから、初期の作品には芸道に題材を得たものが多い。のちに、自作を自らの手で戯曲に脚色したものある。その中の一つがこの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』だ。明治維新を前に、尊皇だ、攘夷だと揺れ動く時代の横浜。そこで起きた、外国人相手の花魁の死を、吉原から流れて来た呑んだくれの芸者・お園が面白おかしく話しているうちに、どんどん話が大きくなり、予想もしなかった事態に発展する…。 続きを読む

私が選んだ100本 005.『勧進帳』歌舞伎

 現在までに上演されて来た歌舞伎の中で、群を抜いて上演回数が多いものではないだろうか。古典芸能の場合、作者が特定できないものもある。この『勧進帳』も、原型は元禄年間に初代市川團十郎が演じた『星合十二段』という作品の中に取り入れられた。その後、江戸末期の天保11(1840)年に能の『安宅』を取り入れて七代目市川團十郎が演じた。現在、我々が観ている形に最も近い形式にしたのは、明治時代に活躍した九代目市川團十郎(1838~1903)だ。いずれにしても、市川團十郎家の芸として、連綿と受け継がれて来た。最近はさほど厳しくないようだが、かつては、市川家の許可がなければ、この芝居を演じることができなかった、という時代もある。 続きを読む

004.『屋根の上のヴァイオリン弾き』作:ショラム・アレイヘム 2017.05.01

 今年の12月に、市村正親の主演で日生劇場で上演されるミュージカルの名作だ。作者はショラム・アレイヘムと記したが、厳密に言えばこれはミュージカルの元になった小説「牛乳屋テヴィエ」の作者だ。それをジョゼフ・シュタインの脚本、ジェリー・ボックの音楽でミュージカル化された。1964年にブロードウェイで初演され、以降、8年間、3,242回のロングラン公演に及んだ作品だ。日本ではアメリカに遅れること3年、1967年に森繁久彌(1913~2009)の主演で越路吹雪、淀かほる、益田喜頓、浜木綿子などの豪華なメンバーで幕を開けたが、不評に終わった。それが、72年の再演で火が付き、76年から82年まで7年間、毎年各地での上演を重ね、日本列島を『屋根の上』ブームに巻き込んだ。森繁久彌は結果的にこの舞台を86年まで907回演じることになり、84年の公演は帝国劇場での半年に及ぶロングラン公演が完売、というほどの熱狂を起こした。

 以後、主役のテヴィエをはじめ全部のキャストが入れ替わり、94年に西田敏行が、2004年からは現在の市村正親がテヴィエを演じている。この作品が初演された昭和42年の日本では、まだ「ユダヤ人の民族差別」を題材にしたミュージカルを受け入れるべき土壌が、観客の中に醸成されてはいなかったことが大きかったのだろう。どんどん地球が狭くなるにつれて、このミュージカルが象徴している「家族愛」の部分も前面に押し出され、もはや古典のミュージカルとして繰り返し上演され、今回で実に28回目の公演となり、上演回数はトータルで1300回を超える。

 私が最初にこの舞台を観たのは1978年のことで、40年近く前だ。すでにブームは起きており、その熱狂に巻き込まれた形だったが、森繁だけではなく、初演以来907回までの舞台を共にした賀原夏子や益田喜頓、須賀不二男らの脇役らの助演陣、相手役の女房・ゴールデの淀かほるなど、メンバーも腕利きを揃えた豪華な舞台だった。

 以降、この作品を観て来た中で、残念なのは、舞台に生きる登場人物から「匂い」が感じられなくなったことだ。時代の変化の中で、作品を貫く「家父長制度」は、日本では崩壊した。また、「差別」に対する感覚は鋭敏になったものの、多くが「個」の問題であり、民族差別に関する理解は、初演当時とはあまり変わっていない。ここに、『屋根の上のヴァイオリン弾き』が抱えている問題があるのだが、それを責めたところでどうにもなるまい。同様な視点で言えば、この作品よりも数年ずつ早くブロードウェイでの初演、映画化、日本での上演、名作化の歩みをたどって来た『マイ・フェア・レディ』も同じ問題を持っている。これは、単に貧乏で下品な花売り娘のイライザが、言語学者であるヒギンズ教授によって世にも稀なレディに仕立てられる、というだけの話ではない。この二人の間に厳然と存在していたイギリスの身分制度や階級制度による「格差」の問題を抜きには語れない。そこが明確に描かれて初めて、『マイ・フェア・レディ』は成立する。しかし、ここ数回の舞台を観た限り、イギリスの当時の上流階級に属する人物は一人もおらず、物語の前提が崩壊している。

 私は、前回の作品を紹介する中で「普遍性」という言葉を使った。移ろう時代の中、変わりゆく人々の感覚の中でも変わらない感情である。しかし、今やその「普遍性」すら揺らぎ始めている時代なのだ、と言えるのかもしれない。しかし、演劇人が、ここで方向を見失ってはいけない。道に迷った時こそ、原点に立ち度戻るべきではなかろうか。

私が選んだ100本 003.『セールスマンの死』作:アーサー・ミラー

003.『セールスマンの死』作:アーサー・ミラー 2017.04.24

 1949年にニューヨークで初演されたこの作品は、初演から70年近くが経とうとしている現在も、アメリカ現代演劇の金字塔としての輝きを失わない。当時では老いた、という感覚の63歳のセールスマンが、過去の栄光と現実の厳しさの狭間に耐えることができなくなり、最期には自ら死を選ぶ、という哀しいドラマが今も変わらぬ普遍性を保っているからだろう。日本には、アメリカで初演後の5年後に、劇団民藝によって上演された。昭和29年のことだ。まだ、戦争の痛手から抜けることのできない、その途上にあった日本での上演は、画期的である一方、手探りの部分も多かったようだ。
 真偽のほどは知らないが、こんなエピソードがある。ある新劇人(当時はこの言葉が普通に使われていた)たちが、この芝居について話した時のこと。「『セールスマンの死』って知ってるかい?」「あぁ、セールスマンなぁ。「詩」は読んでないが、「小説」なら読んだ」。小噺のようだが、「セールスマン」という人物が書いた「詩」だというイメージが、演劇人の中にあるほど、アメリカは遠い地だったのだ。

 この作品を、日本の「新劇史」で燦然と輝かせたのは劇団民藝の仕事による部分が大きい。思想的に共鳴する点も多く、日本で最も多くアーサー・ミラーの作品を演じている劇団でもあるが、何と言っても瀧澤修(1906~2000)が緻密に作り上げた演技の功績は大きい。1954年の初演以来、57年、66年、75年、84年と5回にわたって演じている。最後に演じた時は、瀧澤は78歳という計算になるが、日常の錯誤から狂気へと陥る主人公、ウイリー・ローマンのエネルギーが凄まじく、前から5列目辺りで観ていて、瀧澤が発する強烈な「気」に、身体がのけぞるような不思議な感覚に襲われたのを鮮明に覚えている。瀧澤修以外には、劇団昴の久米明(1924~)、無名塾の仲代達矢(1932~)のウイリー・ローマンを観たが、瀧澤の印象があまりにも鮮烈で、それを乗り越えるまでの舞台にはならなかったのが残念だった。

 主人公のウイリー・ローマンの、年老いても働き続け、ローンに追われる生活は、日本での初演から60年以上の歳月を経ても、変わるところはない。狂気に陥り、自ら死を選んだウィリーの葬儀の後、未亡人となったリンダが墓に語りかける。そこで、もうこれでローンの支払はすべて終わったのよ、でも、もうあの家に棲む人は誰もいない、と語りかける。その言葉は、今になって、途方もなく重みを増している。背景こそ違え、高齢化が拍車を掛けて進む中、あちこちの町や団地がゴーストタウンや空洞化という現象にさらされている今の日本に通じる部分がたくさんあるからだ。もちろん、アーサー・ミラーが60年先の日本を予見していたわけではない。しかし、演劇における「普遍性」はつまるところ人間の生活であり、その中に渦巻く感情、そこから発生する行為なのだ。一見当たり前のような出来事を、薄い皮一枚のところで非日常の出来事にする。そこに「劇的」な作業が加わり、演劇的感動が生まれるのだ。だからこそ、今もなお繰り返して上演されている。もはや、「古典」と言ってもよい作品でいながら、そこに「古臭さ」はない。時代の経過によって多少の違和感はあるものの、作品の中に生きている「人間」の感情はそう大きく変わるものではない。

 時代の流れが加速する時代だからこそ、しっかりと人間を描いた、骨格のしっかりした作品は普遍性を失わないのである。我々が、昔の作品から学ぶことは多い。

私が選んだ100本 002.『一本刀土俵入』作:長谷川伸

002.『一本刀土俵入』作:長谷川伸 2017.04.17

 歌舞伎、新国劇、その他の時代劇、大衆演劇など、日本で最も多く上演されている時代劇ではないだろうか。女剣劇で一時代を築いた浅香光代(1928~)から、「正確には数えていないが、3,000回は演じた」と聞いたことがある。この数字の確度はともかく、それほど多くの観客に愛されたことの傍証にはなるだろう。新国劇では島田正吾(1905~2004)、歌舞伎座は十七世中村勘三郎(1909~1988)、十八世中村勘三郎(1955~2012)、六代目中村勘九郎(1981~)の三代にわたって演じているほか、二世尾上松緑(1913~1989)も持ち役にしていた。前進座では中村梅之助(1930~2016)の舞台が眼に残っている。現在は、九代目松本幸四郎(1942~)が持ち役にしている。

 相撲の才能がないと破門にされ、空腹で倒れそうになりながら歩いている駒形茂兵衛とを、取手の宿場女郎のお蔦があり合わせの身上をすべて恵んでやる。見知らぬ人の好意に何とか生き返った心地の茂兵衛は、決意を新たにする。やがて時が経ち、茂兵衛は念願の相撲取りにはなれず、博徒として生きている。十年前に世話になった恩返しにと、お蔦を探しに来るものの、当時を知る人はほとんどいないばかりか、いかさま博打で追われて来た一人の男と間違えられ、土地のやくざに斬りかかられる。様子を調べたらお尋ね者はお蔦の亭主だった。子供もいる三人を逃がしてやるのがせめてもの恩返しと、桜の木の下で、横綱の土俵入りの代わりにやくざを叩きのめし、「棒切れを振り廻してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛、簪(かんざし)、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形のしがねえ姿の、土俵入りでござんす」との幕切れの台詞は、「男の純情」を描いてあますところがない。

 作者の長谷川伸(1884~1963)は、幼い頃母と別れ、小学校を中退して働くなどの苦労を重ね、文壇で確固たる地位を築いた作家だ。当時の「大衆文学」の旗手としての人気を誇ったが、芝居でもよく上演される実体験に基づく『瞼の母』や、『雪の渡り鳥』など、主人公がやくざや博徒などの社会からはみ出た人物で、常に弱者に優しい眼差しを注いでいるのが特徴だ。それが、長谷川作品の人気の原因の一つであったことには間違いがない。
 
 『一本刀土俵入』は、茂兵衛の相手役である、宿場女郎のお蔦が良くないと、茂兵衛の義侠心も光らない。歌舞伎では六世中村歌右衛門(1971~2001)、七世尾上梅幸(1915~1995)、九代目中村福助(1960~)などがよく演じていたが、前進座の創立メンバーの一人であった五世河原崎国太郎(1909~1990)のお蔦が秀逸だった。自らも身を落とし、昼酒に酔っていながら、困った若者にすべてを与える。それでいて、恩着せがましさがない。何度も頭を下げながら花道を引っ込む茂兵衛にふと気づき、「あれ、まだあんなところでお辞儀をしているよう。そんなに嬉しかったのかねぇ」というような刹那的な感覚が良かった。それだけに、歳月が流れて、恩返しに来て急場を救ってくれた気持ちに涙が出るのだ。この家族とて、人に褒められる亭主ではない。親子三人が何とか雨露をしのいで穏やかに暮らせるように、と思いつめた挙句の行動だ。それを認めることはできないが、同じ世界に身を落とした茂兵衛には、理解もできるのだ。

 国太郎から聞いたことがある。「あたし達が劇団を作ったばかりの頃は、貧乏で上演料が払えなくてねぇ。長谷川先生は、それを御存じだったから、『おまえたちはただでやっていいよ』って。ありがたかったですよ」。

「私が選んだ100本-001.『夕鶴』」

001.『夕鶴』作:木下順二 2017.04.10

連載第一回目は、民話を題材にした木下順二(1914~2006)の『夕鶴』。山本安英(1902~1993)が、生涯にわたって演じた代表作で、戦後間もない1949年に初演、1986年までの37年間に1037回の上演を重ねた。

 言うまでもなく、この作品の元になっているのは民話の『鶴の恩返し』だ。地方や時代により伝わり方に多少の違いはあるが、罠にかかって苦しんでいる鶴を助けた農夫の家に、女性に姿を変えた鶴が身分を明かさずにやって来る。二人は共に生活を始め、鶴は正体を隠したまま、自らの羽を引き抜いて美しい織物を作る。それを町へ行ってお金に変える農夫。鶴は、自分の正体を知られないように、織物を織っている間は決して部屋を覗くなと頼むが、好奇心に負けた男はとうとう部屋を覗いてしまい、自分の妻の正体が鶴であることを知る。真実を知られた鶴は、「もう一緒に「いることはできない」と姿を消す。大方が、こんなストーリーだろう。
 恩返しに来る動物や、人ならぬ物の精などと契りを結ぶという話は、日本は言うに及ばず、中国やインドにも数多く存在し、これを『異類婚姻譚』と呼ぶ。

 木下順二は、この哀しい民話に、「近代的リアリズム」の思想を持ち込んだ。民話を舞台化しただけではないからこそ、この作品を取り上げておきたい。木下順二の『夕鶴』では、鶴を助けた与ひょうという純朴な男が、どんどん俗世間の欲望に落ち込んでゆく。その度合いが深まり、人格が変わってゆくごとに、鶴の化身である「つう」には与ひょうの姿が見えなくなり、声が聞こえなくなる。つまり、民話での破綻の原因である「正体を知られる」前に、二人の関係性が破綻を来していた、ということになる。木下順二の脚本化によって、『夕鶴』は哀しみを込めた民話だけではない新たな広がりの世界観を持った。だからこそ、主演の山本安英も1,000回を超え、84歳で最後の幕を閉じるまで何人も相手役を変えて演じ続けたのではなかろうか。
私が観た舞台は、70代、80代の舞台だったが、日本語の美しさに徹底したこだわりを持ち、自らが勉強会を主催する女優の熱、というものに心を強く打たれたのを覚えている。元来が華奢な身体つきで、鶴の化身がまとう白い衣裳が良く似合っていた上に、声の高さが儚げなガラス細工のようであることも、山本安英の台詞術として堪能した。

 山本安英は、日本の「新劇」の黎明期を担った女優の一人だ。1924(大正13)年に「築地小劇場」(劇場の名前でも劇団の名前でもある)の創立に参加している。ちなみに、文学座の創立メンバーである杉村春子が入団したのは、その3年後のことになる。賞などの栄誉を受けることを好まず、その理由が「本当の年齢を知られるから」という都市伝説のような、いかにも微笑ましいエピソードの持ち主でもある。「新劇の聖女」の異名を持った山本安英がいたからこそ、『夕鶴』は37年にわたって上演が繰り返される幸福な作品としての運命を得ることができたのだろう。

 1976年から今も連載が続いている少女漫画で演劇の世界を扱った人気作品の『ガラスの仮面』。舞台化もされた作品で、この中に登場する大女優・月影千草は、山本安英をモデルにしたとも言われている。彼女の最後の舞台になったのは、公私共にその資質を知る木下順二が描いた壮大な歴史ドラマ『子午線の祀り』の第五次の公演だった。作品を吟味しながら女優活動を続けて来た女優の最後の舞台が『夕鶴』の作者であったのは、女優としての幸福であったに違いない。

「私が選んだ100本」【はじめに】

「私が選んだ100本」【はじめに】2017.04.03

 自分で意識的に芝居を観始めてから、一体合計で何本の芝居を観たのか、正確なところは判らない。たった一回で熱烈な印象を残して去った芝居、観たことさえ忘れてしまった芝居、何度観ても結末は同じだと知りつつ、何回となく観ている芝居、もう一度観たくとも上演されない芝居。

 40数年の観劇歴の中で、その時々に観た芝居は私に大きな影響を与えた。その本数は日々増える一方で、一生「棚ざらえ」をすることはできないだろう。本来であれば、自分がどんな芝居を観て芝居に育てられて来たのかをきちんと検証するべきなのだが、時遅し、の感がある。そこで、完全な形は無理でも、この辺りで一度、役者ではなく「作品」に、批評家として触れてみよう、と思い立った。

 作品のジャンルを問わず、頭に浮かぶままに作品を100本選び、書くことにした。歌舞伎、新派、新国劇、翻訳劇、ミュージカル、小劇場、さまざまな場所で上演された芝居だ。基本的な姿勢として、同じ作者の作品は一本しか取り上げない。ここは苦肉の選択で、一人で何本も取り上げたい作家がいる。また、困るのは歌舞伎の作品だ。作者がはっきりしない物、数人の作者による合作、原作を改作した作品の扱いなど悩みどころが一杯だ。そんな事情で、歌舞伎だけはいささか枠を広げようと考えている。

 読者の皆さんの中には馴染みの薄い作品もあるかもしれないが、昭和から平成にかけて、日本で上演された数えきれない芝居の歴史の断面の一つ、とご理解いただければ幸いである。

 4月10日(月)を第一回とし、毎週月曜日に更新の予定で、順当に行けば約二年近くで終わる計算になる。途中で挫折しないことを祈るのみで、まだ100本目に何を取り上げるかを決めていないが、思い立ったが吉日の例えもあり、とにかく連載を始めることにしようと思う。

 しばらくお付き合いのほどをお願いいたします。

「パルコ劇場の想い出」

 この8月7日を以て、渋谷のパルコ劇場が建て替えのため、約3年間の閉館に入る。1973年に「西武劇場」として開場し、85年に「PARCO劇場」と改称、現在に至るまで渋谷の演劇シーンを創り出して来た劇場だ。同年には渋谷駅の東横百貨店の上にあった「東横ホール」が閉館し、89年には東急本店の横にある「シアターコクーン」が開場したが、458席という舞台と客席の程よい距離感と、独自の視点に立った芸能文化を発信する機能を持つ劇場としての役目は大きい。 続きを読む

「批評家に求められるもの」 2015.09.29

 私は「演劇評論家」と名乗っている。資格や試験があるわけではなく、自ら名乗るのは勝手だ。その批評を、第三者が認めてくれて初めて成立する仕事だ。年齢的な問題で言えば、私より下の世代、つまり40代の人々は同じ仕事でも「演劇ジャーナリスト」「演劇ライター」などと名乗るケースが多い。

 「評論家」というと何だか偉そうな響きで、自称するのはあまり好まない。ただ、私が学生の頃は、同じ職分でも先に挙げたような言葉がまだ一般的ではなく、やむをえずという部分もあり、そのまま年月が過ぎた。同様に「批評家」と名乗ることもあるが、今は多くのジャンルにおいて「批評」なるものが停滞し、あるいは意味をなさないことも多いので、ここでは「演劇」の分野に限ることにする。

 「演劇評論家」と聞くと、芝居を観ては「あそこが面白くない」だの「あの役者の芝居がまずい」だのと難癖ばかりつけているようなイメージがある。しかし、それだけでは成り立たないのは事実だ。「お世辞を言う」という意味ではない。
それ以外に、私は、批評家は「良きデータベース」を有していなくてはならない、と思っている。役者は、自分が舞台に出ている間は他の芝居は観られない。以前、この舞台を他の役者が演じた時にどうであったのか、それを比較した上でどう見えたのか、を役者に伝える。これは、演劇界内部での仕事だ。一般の観客に向けては、この舞台がどうだったのかを、あるいはミクロな眼で、時にはマクロな眼で観た上での総合的な評価をした上で、客観的な情報を伝える必要がある。

 良きデータベースであるためには、以前の同じ舞台との比較はもちろん、演じている役者が他の舞台のどんな役でどういう個性を見せていたかを記憶しておかなくてはならない。そうした意味でも、多くのデータを頭の中にキチンと整理しておくのが必要なのだ。とは言え、これはあくまでも私の「理想」であり、年間200本近い芝居を観る生活を30年以上も続けていれば、当然忘れているものもあるし、勘違いしたまま記憶の棚にしまわれているものもある。そうしたことどもを、暇な時間に整理しておくことも必要なのだ。

 スポーツを例に挙げれば、野球でもサッカーでも、批評をしたり評論をするのは元・プレイヤーであり、何らかの理由で現役を引退した「経験者」だ。しかし、演劇の批評家は、演技の経験はない。これが成立しているのは、音楽、美術、映画といった芸能・芸術の分野ではなかろうか。そういう点で言えば、骨董の目利きと似ている。骨董の目利きをする場合、作品を制作する技術が必要なのではなく、それが客観的に見て良い品か悪い品かを判断し、必要があれば具体的な金額を提示することだ。

 芝居の批評では、「この舞台の価値がいくら」という視点で批評をすることはない。しかし、目利きが必要であることは、骨董と同様である。芝居には贋作がないだけまだましと言えるが、質の良し悪しは厳然と存在する。それを、堂々と良い物は良い、悪い物は悪い、とはっきり言える矜持と謙虚さを持っていなくてはならない。

 人間は弱いものだ。情も働けば、客観的と言いながらも主観が混じることは否定できない。それだけにより一層襟を正して、一つ一つの芝居の批評に当たることが本分なのだ。非常にシンプルなことながら、それだけに難しい。誰にでも自信を持って進められる芝居ばかりに出会えれば、こんな幸福はないが、それを日々探しているのだ。

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