エッセイ

一覧 (9ページ目/全10ページ)

エッセイ「韓流と歌舞伎の入り口」 2015.08.25

 あまり大きな声で言うほどの話ではないが、人よりも15年ほど遅れて「韓流」のドラマに熱を上げている。歴史物の大作で、全51回というスケールはNHKの大河ドラマ並みだ。厳密に言えば、CMもなく本編だけで1回が60分だから、大河ドラマよりも遥かに長いことになる。

 私が気に入った理由の一つは、日本の昨今のドラマとは違い、丁寧に造ってあることだ。衣装や小道具にも相当の費用を掛けているし、ロケも厳寒・酷暑を問わない。脚本に何よりも丁寧で緻密な伏線が張り巡らされており、大雑把な言い方をすれば30年から40年前の日本の映画やテレビの造り方に近い。そこにも親近感を持ったのは事実だ。

 しかし、長い放送が終わってみると、懲りずに「もう一本、面白いのはないか…」となるのは誰しも同じだ。そこで、あることに気付いた。「次の一本」を探す折に、溢れ返っている韓流の作品を見渡してその中から選ぶのではなく、先日まで観ていたドラマの中で、お気に入りの俳優が出ているのは何かないか、という探し方をする。

 これは、私が少年の頃、歌舞伎を観始めた時と同じだ。予想よりも面白い、次を観たい、という段階で、歌舞伎の歴史や演目について何かを勉強しようとするのではなく、覚え立ての役者の名前で、「この人は、いつ、どこへ出るのかなぁ…」と思いながら、インターネットのない時代に新聞の広告を眺めていた。そういう時期を経て、私の歌舞伎の世界は広がった。これは、今、レンタルビデオ屋と場所こそ違え、私が次の韓流ドラマを探している思考回路と全く変わりはない。

 考えてみれば、映画少年だった頃もそうだった。アル・パチーノやジュリアーノ・ジェンマに憧れたからと言ってイタリア映画の事やアメリカ映画の歴史など知りもしなかったし、グレース・ケリーやカトリーヌ・ドヌーブの美しさをひたすらに他の作品に求めた。その癖に、フランス映画のことなど今もって何も知らずにいる。原作を読んでから出かけたのは、角川映画が横溝正史のシリーズでブームを巻き起こした折に、おどろおどろしい題名に惹かれて興味本位で『犬神家の一族』や『獄門島』を読んだぐらいのものだろう。

 あちこちで芸能に関する話をする折に、「まずは役者に惚れてください。贔屓を作ってください」と言うのだが、それは私の実体験を無意識に話していたことになる。もちろん、芸能への入り口は役者ばかりではない。歌舞伎の義太夫の竹本葵大夫は、初めて歌舞伎に出かけた折に、舞台よりも義太夫に惚れ込み、そのまま現在の道へ進んだ、と聞いたことがある。間口が広いのが庶民の芸能の魅力の一つでもあり、他にもいくつも入り口があろう。どこから入ろうと一向に構うことはないのだ。

 韓流ドラマについて言えば、まだ入り口へ立ったばかりで、役者の名前もろくに判らないで観ている。そして、いいようにドラマに引っ張られ、カッカしたりドキドキしたりしている。大袈裟に聞こえるかも知れないが、こんな幸福を長い間味わうのは何十年ぶりのことだろうか。何しろ、初心者で何も判らないのだ、「批評」の必要がないし、他のドラマや映画を観てグズグズ言う気にもならず、一視聴者として楽しめることの魅力、これが一番大きい。そのためにも、あまり詳しくならずにいようと考えている。

 あまり大きな声で言うほどの話ではないが、人よりも15年ほど遅れて「韓流」のドラマに熱を上げている。歴史物の大作で、全51回というスケールはNHKの大河ドラマ並みだ。厳密に言えば、CMもなく本編だけで1回が60分だから、大河ドラマよりも遥かに長いことになる。

 私が気に入った理由の一つは、日本の昨今のドラマとは違い、丁寧に造ってあることだ。衣装や小道具にも相当の費用を掛けているし、ロケも厳寒・酷暑を問わない。脚本に何よりも丁寧で緻密な伏線が張り巡らされており、大雑把な言い方をすれば30年から40年前の日本の映画やテレビの造り方に近い。そこにも親近感を持ったのは事実だ。

 しかし、長い放送が終わってみると、懲りずに「もう一本、面白いのはないか…」となるのは誰しも同じだ。そこで、あることに気付いた。「次の一本」を探す折に、溢れ返っている韓流の作品を見渡してその中から選ぶのではなく、先日まで観ていたドラマの中で、お気に入りの俳優が出ているのは何かないか、という探し方をする。

 これは、私が少年の頃、歌舞伎を観始めた時と同じだ。予想よりも面白い、次を観たい、という段階で、歌舞伎の歴史や演目について何かを勉強しようとするのではなく、覚え立ての役者の名前で、「この人は、いつ、どこへ出るのかなぁ…」と思いながら、インターネットのない時代に新聞の広告を眺めていた。そういう時期を経て、私の歌舞伎の世界は広がった。これは、今、レンタルビデオ屋と場所こそ違え、私が次の韓流ドラマを探している思考回路と全く変わりはない。

 考えてみれば、映画少年だった頃もそうだった。アル・パチーノやジュリアーノ・ジェンマに憧れたからと言ってイタリア映画の事やアメリカ映画の歴史など知りもしなかったし、グレース・ケリーやカトリーヌ・ドヌーブの美しさをひたすらに他の作品に求めた。その癖に、フランス映画のことなど今もって何も知らずにいる。原作を読んでから出かけたのは、角川映画が横溝正史のシリーズでブームを巻き起こした折に、おどろおどろしい題名に惹かれて興味本位で『犬神家の一族』や『獄門島』を読んだぐらいのものだろう。

 あちこちで芸能に関する話をする折に、「まずは役者に惚れてください。贔屓を作ってください」と言うのだが、それは私の実体験を無意識に話していたことになる。もちろん、芸能への入り口は役者ばかりではない。歌舞伎の義太夫の竹本葵大夫は、初めて歌舞伎に出かけた折に、舞台よりも義太夫に惚れ込み、そのまま現在の道へ進んだ、と聞いたことがある。間口が広いのが庶民の芸能の魅力の一つでもあり、他にもいくつも入り口があろう。どこから入ろうと一向に構うことはないのだ。

 韓流ドラマについて言えば、まだ入り口へ立ったばかりで、役者の名前もろくに判らないで観ている。そして、いいようにドラマに引っ張られ、カッカしたりドキドキしたりしている。大袈裟に聞こえるかも知れないが、こんな幸福を長い間味わうのは何十年ぶりのことだろうか。何しろ、初心者で何も判らないのだ、「批評」の必要がないし、他のドラマや映画を観てグズグズ言う気にもならず、一視聴者として楽しめることの魅力、これが一番大きい。そのためにも、あまり詳しくならずにいようと考えている。

「南の島に雪が降る」

 今年は、戦後70年に当たる。何年の節目を迎えようとも、広島や長崎に原爆が落とされ、300万人にも及ぶ貴重な命が喪われた事実は変わらない。戦争を知る次第も高齢化が進み、後20年もしないうちに、戦争をリアリズムを持って語ることのできる日本人はいなくなってしまうだろう。それが歴史というものだ、と言えばそれまでだが、芝居の中に戦争の話題を扱った作品は多い。 続きを読む

「新作戯曲と劇作家のこと」 2015.04.29

 先日、神楽坂の出版クラブ会館で、「第59回岸田國士戯曲賞」の授賞式が開催され、出席した。現代の読者には、「岸田國士」(きしだ・くにお)という人物の説明が必要になるだろう。 続きを読む

演劇界は危機なのか?

 相次ぐ歌舞伎の人気役者の死が取り沙汰されている。確かに、中間世代を担う層が一気に薄くなったことは否定のしようがない。しかし、これはこと「歌舞伎」に限ったことではあるまい。

 ミュージカルにせよストレート・プレイにせよ、小劇場演劇にせよ、どのジャンルを取り上げても順風満帆だという話は聞いたことがない。もう何十年も前から、「娯楽の多様化」と言われ、演劇界がジリジリと苦境に追い込まれていることは事実なのだ。
続きを読む

第二十八回「草笛 光子」

誰でも「老い」は避けられない。今は「アンチエイジング」が盛んで、いかに「若さを保つか」がクローズアップされているが、その一方で、「美しい年の重ね方」もある。最近観た舞台の中で、見事な年の重ね方をしていると感じたのは草笛光子だ。女性の年齢を書くのははばかられるところだが、プロフィールにも出ていたので記すが、今年で81歳だという。見事なまでに美しい銀髪と、軽やかな身体の動きには驚いた。
続きを読む

第二十七回「左 とん平」

喜劇役者としてはベテラン中の大ベテランだ。出て来た瞬間にとぼけた雰囲気で観客の笑いのスイッチを入れる力はたいしたものだ。今までの長い芸歴の中で培ってきたイメージが、それほどに強烈なものだった、ということだ。「左とん平が出てくれば、何か面白いことを言ったりしたりするに違いない」とう観客の期待が満ちており、それにきっちり答えることは、いい加減な役者ではできない。

二年ほど前のことだ。あるコメディの地方公演があり、舞台を観て、終演後に酒席を共にした。その舞台で、主役の女優と二人のシーンがあり、そこでやや長い科白があるのだが、この科白が見事なまでにめちゃめちゃだった。「要するに、あのことについて、お前に言いたいのはあれ、だろ。何て言うかな。まあ、なんとかなるだろう」といった感じで、具体的な内容がない。観客は爆笑した。それを、相手の女優が、「あんたねぇ、さっきからあればっかりじゃ何のことだか分からないわよ。あんたの言いたいのはこれこれこういうことでしょ」と切り返したため、観客の笑いはさらに倍増した。これは、単なるアクシデントではなく、百戦錬磨の役者同士の信頼関係から出て来る高等技術だ、と私は感じた。この場面、私は左とん平が意図的に科白をごまかして笑いに導いたのか、本当に忘れたのか、真相を聴くことはしなかった。どちらも、楽にこなせる役者の実力を目の当たりにしたからだ。
続きを読む

第二十六回「阿部 寛」

映画『テルマエ・ロマエ』のPARTⅡもヒットし、引っ張りだこの阿部寛。年齢相応の味わいが出て来たのは、近年の収穫であると同時に、容姿とは裏腹なコメディ・センスを持っていることも披露している。

あれだけの体格だから舞台映えすることは間違いないが、そう頻繁に舞台には立たずに、作品を丹念に選び、映像とのバランスを取っているようだ。阿部寛を劇的に変えたことで知られる『熱海殺人事件』をはじめ、『新・近松心中物語』、10時間に及ぶ大作『コースト・オブ・ユートピア』などに挑んで来たが、今年の秋には『ジュリアス・シーザー』を演じると聴いた。なるほど、と思える作品だ。
続きを読む

第八回「奈良岡朋子」

芸歴66年を迎えるベテラン中のベテランである。研究生を経て、1950年に劇団民藝の創立に参加し、現在は劇団の代表でもある。日本を代表する名女優の一人であることは、今更言うまでもない。奈良岡朋子の巧さは以前から定評のあるところで、自分が軸足を置いている劇団民藝の活動を中心に、『放浪記』などへの外部出演、テレビドラマ、映画、ナレーションと、幅広い活動はつとに知られるところだ。

民藝、文学座、俳優座の三つ新劇の「三大劇団」と並び称するケースが多いが、これらのいわゆる新劇の劇団に共通して言えることは、カリスマ的な存在が先輩や芸の上の師匠として身近に存在し、劇団を牽引すると同時に、その薫陶を身近に受けながら育つことにある。奈良岡朋子とて例外ではない。瀧澤修、宇野重吉という、日本の新劇史の欠かすことのできない名優二人の時には苛烈とも言える指導を自分のものにして来たからこそ、今の奈良岡朋子がある。
続きを読む

第七回「野田 秀樹」

先輩に当たる評論家が、「野田秀樹はもうそろそろ舞台へ出るのを辞めればいいのに」と言ったことがある。誤解のないように言うが、これは役者としての才能を否定しているのではない。役者として舞台に立つ時間とエネルギーで、一本でも多くの芝居を書いてほしい、という賛辞だ。私も、それに近い気持ちを持ち合わせえている。野田自身が書き、演じて来た芝居の中の多くは、役者・野田秀樹でなければ演じられないものも多い。同様に、その根幹である作品は、よりコアな「劇作家」としての野田秀樹にしか表現できない世界観のもとに構築されている。そうした意味で言えば、彼が演劇界における稀代のプレイング・マネージャーであることは論を俟たない。
続きを読む

第六回「堤 真一」

今、最も脂が乗った役者の一人だろう。堤真一に注目をし始めたのは、1990年に江東区・森下にあった「ベニサン・ピット」という小劇場で麻実れいと演じたコクトーの『双頭の鷲』の若き革命家・スタニスラスではなかったか。もちろん、彼がジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)の出身であり、すでに多くのジャンルで活躍していることは知っていたし、『双頭の鷲』以前の舞台も観てはいる。しかし、この舞台が最初の彼の「変わり目」であったことは間違いないだろう。「ベニサン・ピット」は、客席数が200にも満たない小劇場である代わりに、観客席と舞台との距離が近く、濃密な空間である。そこで、現代フランス演劇の名作でもあり、手ごわくもあるこの作品の上演は、画期的でもあった。コクトーの修辞を散りばめた膨大な科白、そして内面の葛藤と若さの発露、今から23年前の堤真一には大きな壁であったことは間違いない。私がこの舞台を好もしく観た理由は、彼が持つ「トゲトゲしさ」だ。若さゆえの暴発寸前のエネルギーが、いつ爆発するのかという危うさを孕んだ革命家の演技は、黒いベールに包まれた麻実れいの王妃の「静」の芝居に対して、「動」という対照だけではない不安感を観客に与えた。それが、この作品における革命家の悩みとオーバーラップして、「ハマった」のである。彼をこの役に選んだプロデューサーの慧眼と言えよう。
続きを読む

以前の記事 新しい記事