のっけから不躾な話だが、あれほど綺麗な遺体は、後にも先にも淡島千景だけだった。まさに「眠るが如く」居間に横たわった彼女は、多くの胡蝶蘭に囲まれ、楽屋でひと時の休息をしているかのようだった。今にも起き出して、「舞台だから支度を…」と言い出しても全くおかしくはなかった。満88歳のお祝いを迎える8日前に、73年に及ぶ女優人生の幕を閉じた。映画でも舞台でも主演女優として評価の高い作品を残したのは、山田五十鈴、淡島千景が双璧ではないか、と私は考えている。杉村春子は、本数では相当の映画に出ているものの、主役と明らかに言えるのは最晩年の『午後の遺言状』を待たねばならない。しかし、彼女は宝塚時代に娘役として人気を馳せ、映画に転身後は『てんわわんや』、『日本橋』など毛色の違う作品でも見事な魅力を見せた。それに加えて、森繁久彌の出世作となった『夫婦善哉』以降は、森繁主演の『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』など、役者としての抽斗の多さを見せた。
舞台では、長谷川一夫との共演が多く、その芸談も「長谷川先生はね」といかに大きな影響を受け、尊敬の念を持っていたかが判る話しぶりだった。長谷川亡きあとは、東宝の女優芝居の看板女優として谷崎潤一郎の『細雪』で時代遅れのプライドを持つ大阪・船場の旧家の長女を長らく持ち役にしていたし、賀原夏子の劇団NLTでは『毒薬と老嬢』で海外のコメディを上品に演じて見せ、いずれも好評を博し、健在ぶりを見せていた。
最期の舞台になったのは、亡くなる前年に東京国際フォーラムで開催された舞踊家・花柳寿輔の「傘寿の会」で「あやめ浴衣」を寿輔と共に踊ったものだ。劇場公演で言えば、その前年、2010年の暮れに大阪の新歌舞伎座で西川きよしが旗揚げした劇団公演にゲストで出たものになる。高度成長期の昭和を描いた芝居で、珍しくスカートを穿いて洋装を演じた。終演後、楽屋へ立ち寄ると「中村さん、あたし、おかしくない?」と盛んに気にしていたのが、失礼ながら少女のようだった。それまで淡島千景に対して「凛然とした女優」というイメージが大きかった私には、この可愛らしさが意外だったのだ。
私は、淡島千景に詫びなければならない事がある。この公演が終わり、体力の衰えを感じたのか、「大劇場での一ヶ月公演が最近つらいの」と、ふと漏らしたことがあった。私は、「サロンのような場所で、共演者と作品を厳選して、こじんまりとした朗読劇をやりませんか」とアイディアを出した。この時、彼女はすでに亡くなっていた文学座の北村和夫との約束で、他の場所で朗読劇を行ってはいたが、私の眼では共演者との実力差がありすぎた。「淡島千景のブランドを消費しないでください」と不満をぶつけると、しばらく逡巡した後、「やりましょう。ただ、条件があるの。派手なことや無理なことはしないでくださいね。その代わり、長く続けられるように考えてくださらない」と。もちろん、否やはない。
その後、作品や共演者を考え、目黒の自宅で何度か打ち合わせをした。2011年の夏も終わろうという頃、「後は全部あなたに任せます。作品の順番も、構成も演出もね」と決定した。半分世間話のような楽しいおしゃべりを終え辞去しようとした私に、「ちょっと待って」と、自ら庭へ出て、美味しそうな果物を抱えて来た。「これ、巴旦杏なの。今が食べごろよ」と、三つか四つの実を私に差し出してくれた。帰る道すがら、「天下の淡島千景が自らもいでくれた巴旦杏を永久保存する手立てはないものか」と満ち足りた幸せで家路に着いたが、それがお別れになってしまった。間もなく、マネージャー氏から、「少し体調を崩しましたので、朗読劇は延期、ということにしてもらえませんか」という電話を受けた折には、まだ最悪の予感はなかった。
しかし、何となく聞こえてくる劇界雀の噂話で、あまり体調が優れないらしい、という状況で年を越し、間もなく訃報を受けた時には、パソコンの前で号泣した。
護国寺の本葬に飾られた写真は、菩薩のように美しく、87歳の女優には見えなかった。無理をお願いして焼き増しをしてもらった写真は、狭い書斎の中で、「しっかりやってね」と言いそうな微笑みを湛えている。