「じゃがいものような顔の名優」とは甚だ失礼な表現だが、無精ひげの生えた顔を撫で回しながら、「うーん」と言って芝居の話をしている顔が真っ先に目に浮かぶ。
これは、私が大学生の頃、夜学へ通う前に今も健在な日本橋・三越劇場でアルバイトをしていた頃の話だ。1980年辺りだろうか。当時の三越劇場は、ほぼ年間を通して演劇作品の上演があり、自主制作もあれば提携公演もあった。「新劇の老舗」と言われる文学座、俳優座、劇団民藝はそれぞれ8月、6月、12月と決まっており、民藝は毎年暮れの公演だった。
宇野重吉の演出の肌理の細やかさと厳しさはつとに知られるところだが、稽古場を観た事がない私は「伝説」としてしか知らない。私が三越劇場で接した宇野重吉は、芝居の初日が開いて、時として演出家であり、俳優であり、どちらをも兼ねている、というケースだった。夜の部が終わると、狭い楽屋の一番大きなソファーの真ん中に座って、若い座員と共に一杯やりながら、芸談が始まる。何度か目立たぬように端に座り、それを聴いたが、大学で学ぶ「理論」ではなく実践者の言葉には何とも重みがあった。
その頃『チェーホフの桜の園について』という本を、宇野重吉が書いた。研究者顔負けの精緻さで、原作よりも遥かにページ数が多く、現場で演出をしながら感じたことをまとめた「演出メモ」の集大成とも言える本だ。民藝では、細川ちか子がラネーフスカや夫人を当たり役にして、俳優座の東山千栄子とは色合いの違う『桜の園』を上演し、好評を博していたから、その記録をとどめておこうと思ったのだろう。学生の身にしては高い本だったが、それを手に入れた私は、楽屋でサインをねだった。「下の名前はどういう字」とペンを走らせていた宇野重吉に、図々しくも「これから演劇を学ぶ後輩に、何かお言葉をください」と言ったら、「ふーむ」と言って、先に持ち出したじゃがいものような顔を撫で回して、「それは勘弁してくれよ」とニヤリと笑った。今なら、こんな事はとても恐ろしくて頼めないが、まさに若気の至りだ。
私が三越劇場のアルバイトを「卒業」して2年後、最期の舞台になったのも三越劇場だった。『御柱』『馬鹿一の夢』『息子』と、一幕劇の三本立てで、それぞれの主演が大滝秀治、宇野重吉、瀧澤修と、何とも贅沢な顔ぶれである。『馬鹿一の夢』はわずか20分ほどの芝居だったが、肺がんの末期症状にあった宇野重吉のコンディションは最悪で、楽屋には酸素ボンベを持ち込み、車椅子での楽屋入りだった。しかし、舞台での姿は、決して派手な動きはないものの、身体の状況で抑制せざるを得ない状態でもキチンと芝居をしたのは、役者の業にも似た感覚を抱かせた。カーテンコールの拍手でようやく立ち上がり、満員の観客席に深々とお辞儀をした宇野重吉は、自らの頭を持ち上げるのも容易ではないほどに弱っていた。
暮れの25日に千秋楽を迎え、その訃報が入ったのはわずか2週間後の事だった。一人の役者の生命が、まさに舞台で燃え尽きる瞬間を見せたのだ。こうした行為には「役者として現役で燃え尽きた」という一方で、「何もそこまでしなくても…」という賛否両論はあろう。しかし、そうした意見を割り引いて考えても、あのわずかな時間の舞台を観客席で共にした経験は今なお鮮烈だ。
宇野重吉は、役者としての他に演出家としても大きな仕事を遺している。先に述べて『桜の園』もそうだが、盟友・瀧澤修と共に造り上げた劇団の名作は多い。役者としての経験上、台詞一言の重み、大切さを骨身に沁みて理解していたからだろう。
日本人はジャンルに寄らず「道」が好きだ。「この道一筋」などという言葉が好んで使われる。これは中国大陸や朝鮮半島の思想に長い時間にわたって影響されて来た歴史や、宗教観に基づくものも多いだろう。私には、宇野重吉の最期の舞台は、自分が歩んで来た道の歩き方、そして最後の姿を、全身を使って示し、20分に集約して見せたもののように思えてならない。