その最期があまりにも伝説的と言うか、この女優らしい、とするべきなのか判断に苦しむところだが、50歳を迎える手前でそそくさと旅立ってしまったのは、没後25年に近い今でも寂しさが募る。
所属していた文学座の芝居『唐人お吉』の三越劇場での東京公演を終え、地方公演に出た一行は、伊豆半島へ向かい、主人公のお吉に由縁の深い下田の手前、伊東市で公演を行った。終演後、気の合った仲間と呑みに出かけ、宿舎へ帰る途中に桟橋から乗っていた車が海に転落、彼女だけが生還することができなかった。もともと酒豪で知られた女優だけに、彼女らしい最期と言えなくもないが、年齢を考えるとこれから、という矢先に、疑う暇もない間に逝ってしまったショックは拭いようがない。またその時に演じていた「唐人お吉」にゆかりの深い伊豆・下田の手前、というのが何とも切ない。
所属していた文学座では創立メンバーのトップ女優・杉村春子の後継者と目されていたが、それだけではなく、外部の舞台でも多くの名品を遺している。1979年に帝国劇場で平幹二朗とのコンビで初演された『近松心中物語』は、その後、姿を変えて今も上演されている。この芝居は幕切れ近くに、主役の忠兵衛が太地喜和子演じる梅川を抱き上げる場面があり、そこで相手役の平幹二朗が腰を傷め、途中で降板となった。その代役をわずかな稽古で見事に演じ、評価を受けて世に出たのが本田博太郎だ。全身を平幹二朗にぶつけるような熱演型の演技は、若々しさに満ち溢れ、帝国劇場の大きな舞台に臆することのない立派な芝居を見せた。
太地喜和子という女優には「セクシー」という言葉よりも「妖艶」の方が似合う感覚がある。これは作品が日本であろうが海外であろうが同じだ。1968年に初舞台を踏んだ太地の舞台を初めて観たのは、主役では先の『近松心中物語』で劇団を離れての外部出演になる。劇団の公演では、その2年前の1977年に、三越劇場で上演した『華々しき一族』で、主演の杉村春子の娘だった。その後、テネシー・ウィリアムズの『地獄のオルフェ』、『欲望という名の電車』、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』などが続いている記憶だが、いずれも主演の杉村春子の脇に回り、支える役だった。劇団でいる以上、伝説的とも言えるトップ女優が健在であれば、その補佐に回るのは仕方がないことだ。
しかし、所属劇団の文学座が創立45周年を迎えた1982年、記念公演のうちの一本で、主役を演じたのが印象に残っている。本来の文学座のレパートリーの中にはなかったカラーの作品で、樋口一葉の小説を久保田万太郎が脚色した『おりき』という芝居だ。当時の文学座は、毎年8月は三越劇場での提携公演が恒例だった時代で、1982年の創立45周年公演は一幕物の芝居が昼夜二本ずつ、合計四本上演された。私はこの時、三越劇場でアルバイトをしていたが、切符は早々に売り切れ、定員が534名の大きいとは言えない劇場に出せる限りの補助席を出しても、切符の申し込みが途切れない嬉しい悲鳴だったのを覚えている。その一方で、補助席を出しすぎ、ただえさえ広いとは言えない客席通路を、お客様をご案内できないほどの混雑ぶりだったのを懐かしく思い出す。
この頃、三越は日本橋の本店から歩いて数分の場所にもう一つ、『三越ロイヤルシアター』(1980年に『呉服橋三越劇場』としてオープン)という劇場を持っていた。そこで、82年の1月にユージン・オニールの『楡の木陰の欲望』を風間杜夫と演じたことがある。三越の主催公演だったと記憶しているが、劇団を離れた場所で新しい相手役と瑞々しい芝居を見せていたのが記憶に残っている。三越劇場とは兄弟のような関係の劇場で、スタッフも一緒だったことから、この公演の席案内のついでに芝居を観てしまったのだ。私にとって、三越劇場は、アルバイト先であると同時に、大切な勉強の場所であり、芝居の宝庫でもあった。そこで、芝居作りの「現場感覚」や観客の視点を学ぶことができたからこそ、今、こうして芝居の原稿を書いていられる。そこで多くの事を教わったが、舞台からも多くの糧を得た。その一人の中に、太地喜和子が今も輝いていることは間違いがない。